小池百合子の追悼文拒否 と 中川五郎の「1923年福田村の虐殺]
きのうの朝刊各紙には、小池百合子東京都知事が、9月1日の関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式への追悼文をおくることを断ったことが掲載された。犠牲者の数の根拠が薄弱だという主張にしたがったのだという。
それを言うなら、碑文の「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑」という表現の曖昧こそ問題にすべきだろう。これでは、災害で亡くなった人たちも含まれるようではないか。
デマに踊らされた日本人によってリンチで殺された朝鮮人を、地震で家屋の倒壊や火災で亡くなった朝鮮人と一緒にするような表現によって、リンチで殺された人たちの人数の不確かさと相殺したのだろうか。それはそれで、敢えて傷を露わにしないという大人の表現かもしれない。
しかし、そうではなく、不確かなものは不確かなままに表現するとという意味で厳密に書くとすれば、碑文を「関東大震災朝鮮人虐殺被害者追悼碑」として、説明に「六千人余り」と書いたのを「数千人」と書き替えるのがいいだろう。
つまり、厳密な犠牲者の数は大きな問題ではない。たくさんの朝鮮人が、多くの場所で、デマに煽られた日本人の市民に殺される・・・という同時多発行動をひきおこすだけの精神的な土壌が、日本人にあったということが問題なのであって、ぼくたちは、たまたまその時代その場所にいなかったけれど、まったく無縁のできごとではないのだ。
つい先日も、小池百合子と「市民ファーストの会」が衣の下の鎧を見せた。
知事選挙では「都民ファーストの会」を旗印に 勝ったが、夏の国政選挙では「日本ファーストの会」にすると言い出したのだ。「都民ファースト」というスローガンは利権に群がる連中のためでなく、ひとりひとりの都民を大切する行政を行うという意味であるとだと信じて投票した人が多いだろう。しかし、「日本ファースト」といえば、「USAファースト」と同じく国際協調でなく自国の利益を第一に考えるということだ。「都民ファースト」を国の全体に拡げるなら、「国民ファースト」であるはずだ。
この記事を見て ぼくは中川五郎の「1923年福田村の虐殺」という歌を思出した。
- 2017.08.24 Thursday
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- 15:06
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- by 玉井一匡