半藤一利の昭和史:昭和天皇への敬愛と軍部への怒り

0
    Click to jump to Amazon

     近頃は世の中の状況が この前の戦争が始まった頃の雰囲気に似ていると、戦争を体験した人たちが言うようになって久しい。
    しかし、その時代を身をもって体験した人たちは、年ごとに少なくなってゆくから、戦争体験のない我々が、直接に彼らの体験、あの戦争とその時代について聞くことはほぼ不可能になろうとしている。いま、我々の手に残されるものとして、半藤一利の数々の著書がますます重要になってきた。

     半藤は、ふたつの重要な時代と立場を体験している。
    ひとつは戦争体験である。中学生時代に向島で東京大空襲に遭遇し九死に一生を得たあと、長岡に疎開し山本五十六の母校に学び敗戦を迎えた。彼は 戦闘に加わったことも人を殺した経験もないけれども、殺されそうになり死屍累々の都市を歩いた。
    もうひとつの立場は戦後、総合雑誌が現在とは比較にならないほどの大きな影響力をもっていた時代に、文藝春秋社の編集者として、のちに編集長や役員としてマスメディアの中枢にあった。岩波の「世界」が革新の中心であるとすれば、「文藝春秋」はいわば保守的なリベラルの中心にあった。しかし現在の半藤は、憲法9条をまもり、エネルギーは原発をやめるべきだという立場を明確にしている。冷戦がおわり数十年を経たいま、保守と革新という色分けとは違うものになっている。

    「昭和史」と「昭和史 戦後編」は、出版社の若い人たちに乞われて聞き手4人を前に月に1回ずつ1年をかけて昭和の歴史を語ったのを 文字起こしして1冊の本にしたものだ。歴史探偵を自称する半藤は、具体的な資料を示しそれらにもとづきながら 研究者ではない身の軽さで昭和を語り、ときには等身大の半藤少年の眼になって戦中時代を描いてみせる。
    始めの一冊「昭和史」はミズーリ号で降伏文書を交わすまで、二冊目「昭和史 戦後編」は沖縄返還までだ。あの時代が現在とどう似ているのかを知るには1冊だけでいいが、そのつづきも読まずにはいられないだろう。

    「昭和史」を構成する15の章のタイトルをみれば、そのすべてが戦争にかかわっている。(ここ、あるは文末の 関連エントリー「昭和史1925-1945」/aki's STOCKTAKING を開くと15の章が見られます)昭和という時代が、始めから敗戦まで絶えざる戦争の時代だったというのが半藤の視点なのだ。このなかで半藤は、日本を昭和天皇・軍部・政財官という3つの軸が国民の上に乗り、マスメディアという4つめの軸がその間を右往左往して利益をあげることに目がくらみ戦争を煽ったと、戦中の昭和史を総括する。・・・ところで、4つの軸云々ということを半藤が書いているわけではなく、ぼくの半藤観です。

    「死都日本」は希望の書

    0
      Click to PopuP

      「死都日本」/石黒耀/講談社文庫

        口之永良部島浅間山箱根御嶽山の噴火、小笠原の地震と続けざまに火山の活動が活発になるので、これからどんなことが起こるのだろうかと、4年前に読んだ本をもう一度読んだ。2011年のはじめ、新燃岳がさかんに活動していた頃に友人に勧められて読むと、ほどなく東北の地震があった。

       この物語は、死火山とされていた巨大火山(現在の加久藤盆地)の破局的噴火を描いたものだが、題名から思い浮かべる死や滅亡の物語よりも、むしろ死と再生の物語だ。
       2003年に世に出た小説でありながら、8年後の東北の大地震とその前後を予見していて、さまざまな描写にもストーリーにも破綻なく、ドキドキしながら一気に読破させられることを考えれば もっと広く読まれるべき本だ。にもかかわらず、あまり知られていないのは不自然に感じるほどだ。マスメディアは土地価格の低下などの影響に配慮しているのだろう。いいかえれば、それほどにリアリティのある物語だということだ。

       ・・・戦後長年にわたる官僚と保守政党は、一党支配によって内需を拡大するための対策として公共事業を増やしつづけて莫大な財政赤字をつみあげ、自然をこわし、私腹をこやした。それに我慢ならなくなった国民は、選挙で野党に劇的な勝利を収めさせた。新政権がさまざまな改革を進めているときに大噴火がおきる。

      かもめブックス:本屋は大きくなくてもいい

      0
        Click to PopuP

         数ヶ月前、神楽坂を登り切ったあたりに「かもめブックス」という本屋ができた。まえにも本屋が入っていた古いビルの1階を改装して新しい経営ですっかり生まれ変わったのだ。

         道路に面したところにはカフェ、奥に小さなギャラリーがあるし、文房具もすこし置いてある。壁面を本棚が埋め尽くしているわけではなくて、本棚と柱の間には隙間もある。気候のいい日には道路にむかって店を開け放っている。店の外には、板張りの床の一画を塀で囲んだ喫煙コーナーがある。
         もともと決して大きな店ではないうえに、ほかのもののために場所を割いているのだから本の売り場も本の点数も大分すくなくなっているはずなのだが、ぼくには本が少ないとは感じられなかった。

         本が好きだといっても、読みたいものは、世の中にあるもののうちの ごく一部にすぎないのだから、本屋にさほど広い床面積は必要はないのだ。
        インターネットから莫大な情報をいつでも取り出せるようになったいま、 ぼくたちが書店に求めるものは、情報の量でも本の数でも床面積でもない。好きな本をきもちよく開いて見て、気に入ったら連れて帰ることのできる場所なのだ。

         たとえば上野の駅ナカに大きな本屋があるけれど、ぼくは いささかも知的好奇心をそそられることがない。なにしろ入口まわりには嫌中嫌韓ものを集めたコーナーを設け、売れるものであればどんな卑しい気持ちでつくられたものであろうと、人目を惹くところに置こうというのだ。こんな店では決して買わない、店に入ることさえしない。無駄な情報と罵倒に満ちた2チャンネルを店にしたような代物だ。
        続きを読む >>

        | 1/1PAGES |

        calendar

        S M T W T F S
           1234
        567891011
        12131415161718
        19202122232425
        262728293031 
        << July 2015 >>

        selected entries

        categories

        archives

        recent comment

        recent trackback

        recommend

        links

        profile

        search this site.

        others

        mobile

        qrcode

        powered

        無料ブログ作成サービス JUGEM