新しい年が明けました 本年もよろしくお願いします
2年前に 小さなケーキ屋を開いた次女が いろいろと悩んだ末に、Twitterで このようなことを書きました・・・今年はいつものようなクリスマスケーキはつくらないで、 クリームで包んだ白いケーキに ハトとオリーブの葉をかたどったクッキーをひとつずつ添えるものにします、・・入りやすいところからパレスティナのことを考えてもらおうと考えて そう呼びかけると、思いがけず 270万ほどのアクセスと1万以上の「いいね」がありました
ぼくは、そのハトとオリーブのクッキーを写真にとって、ハトたちがオリーブの枝を空から降りそそぐ年賀状に転用することにしました
大戦中に、あれほどの悲惨な目に遭ってきた人々が、もともとそこに住む人々のいた土地パレスティナにやってきて国をつくったという歴史などなかったかのように、その子や孫たちが 先住民に対して どうして こんな仕打ちをできるのだろうかという疑問、ほぼリアルタイムで映像として送られてくる残酷な行動、それが生むであろう計り知れない復讐心、ショックドクトリンに乗り遅れまいとばかりに武器輸出規制を緩和しようという我らが浅ましい政府、詐欺同然の万博賭博計画・・・怒りを膨らませるタネには事欠かないが、怒りを元気に転換させて 正気を取り戻し、人類の宿痾である暴力も差別もないプラットフォームの再構築を目指して、まずはハトとオリーブの世界を思い浮かべます
]]>その数ヶ月前に封切上映された時に秋山さんからすすめられたのだが、暴力をめぐるつらい物語だということは聞いていたから、ついつい行きそびれていた。
ギンレイホールで上映されることになって 映画館で見ることができたのだった。
封切上映から数ヶ月後 この映画が名画座に来る寸前の現実世界で、プーチンのウクライナ侵略という大きな暴力、論外の理不尽が行われた。
そんな時期に この映画を見ると、かつて人間社会は いかに暴力によって支配と秩序を形成していたか、しかし人間は なんとかしてその状態を法による統治に変えようと苦闘してきたのだと、つくづく感じた。
にもかかわらず プーチンは、時間を何百年も巻きもどすように、あからさまな暴力で 法に基づく秩序を変えようとしたのだ。
映画の舞台は14世紀末のフランス、そこで二つの暴力が重なる。
ひとつは、レイプという犯罪としての「暴力」、もうひとつは、それを裁判所に訴えたが 法廷では いずれが真実であるかを判断できず、決闘によって勝者の主張を真実と認めるという 司法制度としての「暴力」である。
さらに、主人公は騎士であるから、彼は領地の支配を王に認めてもらう代償として国王の戦争に馳せ参じて暴力を捧げ、その恩賞として領地や金品をもらうという存在であって、社会の秩序そのものが暴力を基幹にしている時代なのである。
監督は「ブレードランナー」や「エイリアン」のリドリー・スコット、抜き差しならぬ立場に自らの意思で踏み込み、決闘で正邪を明らかにしようとする中世フランスの騎士をマット・デイモンが演じて、徹底的なリアリティと緊張感に ぼくたちを追い込むのだ。
]]>〒169-0072 東京都 新宿区 大久保2-33-40
こんなわけで、事務所の引越しのお知らせを年賀状に兼ねさせていただきました。
昨年の秋は、皆既月蝕を見て 月が隠れる時には月が消えるのかと思っていたら、むしろ赤みを帯びた光を滲ませて美しいことが意外だったので、深く印象に残りました。 毎年の年賀状には、太陽と干支を材料にするのだが 今年は月を加えたくて、「菜の花や 月は東に日は西に」を題材にして、左に月 右に夕日 その間に見わたすかぎりの菜の花にしました。というわけで、「BOUSSON」はフランス語ではなく与謝蕪村。
]]>そこにゲストとして森達也を招いて、小説「千代田区一番一号のラビリンス」を取り上げている。明仁天皇夫妻を主人公にした物語で、自分では なかなか面白いと思っているのだが 新聞・雑誌などマスメディアの書評は一向に取り上げてくれないと、はなはだ不服そうに著者は語っている。
話の冒頭を少し聞いているうちに、ぼくは この本を ぜひ読みたいと思ったので、二人がストーリーについて踏み込んだ話をはじめる前に YouTubeの対談を途中で切ることにした。
本を読むと、たしかに さまざまな意味で とても面白い・・・物語として、社会についての問題提起として、着眼としても、そして 天皇夫妻を描いたということも・・・森達也の不満はもっともだ。
しかし 彼は、マスメディアがこの本を取り上げることに臆病であることなど覚悟の上で書いたに違いない。なにしろ この小説は 天皇を描くとともに、天皇について論じることを過剰に恐れるマスメディアを描いているのだから。
小説を読み終わると ぼくはふたたびYouTubeを開いて、対談「著者に聞く 千代田区一番1号のラビリンス」を最後まで見なおした。
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公示に先立って11月2日、よだ氏は外国特派員協会の記者会見に招かれた。
区長選挙への立候補を表明していたので、トランスジェンダーである彼女が当選すれば、 日本初のLGBTQの首長となることで海外からも注目され、日本に変革を起こすかもしれないと期待されたのだろう。
会見は、かれんさんの英語によるスピーチの後、LGBTQや政策目標について 司会者と外国のジャーナリストからの質問に率直に明快に答える。
豊橋に生まれ、小学校6年から高一まで沖縄で育ち、神奈川県に移ったのち、北新宿に住んでいる。俳優・ショーダンサー・行政書士・新宿区議(4位当選)・参議院選挙立候補・落選後は れいわ新撰組の政策立案職員のポストで働きながら次に備えていたが、求められて区長戦に立つことになった。
10数年前、性転換手術を受けることを決めて、それまでともに過ごしたパートナーに別れ話を持ち出した。その時の彼の言葉や、両親に打ち明けた時の 母と父の受け止めかたについての話は 胸を打つ・・・上の写真をクリックすると、その部分から動画が始まります・・・政策についての質問にも、生活者中心の政策を具体的に掲げて現在の区政との違いを示している。
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「1Q84」には、男女ふたりの主人公がいる。
その一方の「青豆」は、DVを振るう男を標的に依頼を受けて、金のためではなく確実になしとげる暗殺者である。知的で かつ心身を自在にコントロールできる魅力的な人間として描かれている。
物語の背景には、閉鎖的でありながら人の中に入りこむカルト教団がある。
青豆自身は、それとは別のカルト教団の きわめて熱心な信者の娘として生まれ きびしい戒律を守り子供時代を育った。おかげで周囲の人々との間には深い乖離が生じ、さりとて教団や教義を いささかも信じないから、やがて みずからの意志で家を出て自活した二世信者である。
銃撃事件の数日後にネットの情報番組ArkTimesで、ゲストにワシントンポストの記者をZOOMで招き アメリカにおける統一教会について話をきくのを見た。
統一教会の教祖 文鮮明の姓「文」は韓国語で「ムン」と発音するので アメリカでは それをMOONと表記して、彼らの信仰をMOONISMと呼んでいたので、一見 やさしげな印象を与えていたというのだ・・・そう聞いて「1Q84」の世界には 空に二つの月が浮かんでいたことを思い出した。
村上春樹は オウム真理教を題材に「アンダーグラウンド」というノンフィクションを書いている。ぼくは、オウムに興味を持たなかったから 読んでいないが、村上のことだからカルト教団と信者について丹念に調べ インタビューを重ねたに違いないし、統一教会にも関心を持っていただろう、それが1Q84のどこかに反映されたり密かに 何かが埋め込まれたりしているのではないかと興味を持った。
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安倍銃撃事件によって 統一教会が注目を浴びたために、自民党の政治家たちとカルト宗教団体がたがいに依存しあう仲であることが露見した。
これは、デモクラシーの根底を揺るがすほどの深刻な問題であるにもかかわらず、「だからどうした?」と言わんばかりに開き直って党の危機を乗り切ればいいとするような発言が、岸・福田の衣鉢を継ぐ世襲議員から出てきた。
日本のデモクラシーの劣化は、さらに深刻な事態になっている。
しかし、このような絶望的危機にあって、ぼくたちに希望を与えてくれる人や出来事がある。
先日の杉並区長選挙で、ひとりひとりの市民の自発的な活動を組織化した力によって岸本聡子さんが選ばれたこと、もうひとつ、コロナ対策の成功で注目された明石市は 市長の泉房穂氏が政党によらず市民の支持をもとに3期にわたって市政運営の改革を積み重ねて、よりよいコミュニティを構築していることだ。
この二人は、いずれも僅差で選挙を制した。おかげで、彼らを支持し投票した人たち誰もが、自分たちと仲間の投じた票が大きな役割を果たしたと感じている。
その明石市長の泉房穂と経済学者の安冨歩の対談が実に興味深い。
]]>「スープとイデオロギー」を観た。
重くて根の深いテーマを取り上げながらユーモアを交えて描写してきたヤン ヨンヒは、常に自身の家族を題材にした。父、姪、兄、につづいて、母を中心にした このドキュメンタリーで家族の顔ぶれが揃うことになる。
できごとや環境のきびしさにもかかわらず この人の作った映画は あと味が悪くないのは、底流に家族への愛情が感じられるからだろう。
監督のヤン ヨンヒ(梁英姫)は、2012年の「かぞくのくに」で、作品がキネマ旬報ベストテン1位になり、安藤サクラが主演女優賞をもらった。
3番目の兄が北朝鮮から病気治療で帰国するが、 監視がつきまとい 行動に干渉することに妹は強く反発する。監督自身の体験を妹の視点で描いた劇映画の前に、2本のドキュメンタリーを作っている。
彼女は、大阪 鶴橋のコリアン コミュニティで生まれ育った。父は 末っ子の娘をのぞき三人の息子をすべて、帰国事業で北朝鮮に渡らせた。
かつて 読売新聞が、大々的に金日成の唱える「主体(チュチェ)思想」を讃える記事を見開きで掲載したことを、ぼくは記憶しているが、日朝の政府がそれぞれの思惑のもとに主導した「理想の国づくり」を信じて息子たちを手放し、現実には 彼らを辛い状況に置くことになってしまった父に対して ヨンヒは抑え難い反発をかかえながらも、両親との間には愛情が通っている。
昨年末、若い友人夫妻にすすめられて本屋大賞2021ノンフィクション本大賞の贈彰式をYouTubeで見た。
著者である上間陽子さんのスピーチは 胸を打つ不思議な印象を残した。きわめて深刻な 沖縄の若い女のひとたちのありさまや、動こうとも減らそうともしない米軍基地のもとに暮らさざるをえない日々の 不条理を語りながらも なにか美しいものに包まれているようなのだ。
1週間ほどのちに 二人に会うと、読み終わったら 周りの方に回してあげてくださいと言って この本を貸してくださった。表紙のデザインが気にいった本を読むときの常で、ぼくは インクジェットのプリンターでカバーのカラーコピーをつくり、二重にカバーを着せた。
ぼくが読みおわったあとは、50年も前からまちづくりで沖縄に通い続ける友人と その家族が読んでいる。
本を読むと、内容の印象が 表彰式のスピーチそのままだった。そのうえ、表紙の視覚的な印象も 相似形をなしているようだ。絵は、海の底に植物とも動物とも知れない生きものが 光を浴びながらゆらゆらと動いているようで、美しい けれども どこか不穏なものが潜んでいる。
表紙のデザイン・スピーチ・本の内容・そして沖縄のありよう、それらの旋律がコーラスのように響きあって 心の底に残る。
]]>新年おめでとうございます。
このところ 毎年の年賀状には、太陽と海とその年の干支を使って 新しい年を寿ぐことにしてきました。
しかし、しばらく前から 海といえば海面水位の上昇や海洋汚染をもたらし気候変動をひきおこす人間の生産や生活のあり方をも思わずにいられなくなってきました。
国も人種も問わず すべての人を同じ危険にさらす新型コロナは、もしかすると すべての人類が同じ問題を共有し、一致協力して対処する機会に転ずるという奇跡を期待しましたが、トランプの時代とあって、むしろ分断と格差を広げました。
その一方では、グレタ・トゥーンベリのような若者が、多くの若者の共感を生んで行動を起こしています。
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大石さんは、戦争で多くのものを失い 心身を深く傷つけられたひとびとをモノクロームの写真に残しているから それを見るのはつらいのだが、写真を見ているうちに思い出されることがある。
戦争で失われたものの大きさ、それでもなお生きようとする人々のうちで 吹き消されることのない燠火、おそらく子供たちに生まれながらに授けられた生きる力、それらが 写真に写しとられているのだ。いや、彼女たちの表情そのものがフィルムであるように戦争が写しとられながら、それを透けるように 生きようとする力が見えるのだ。
大部分の写真は、ベトナム、カンボジア、ラオス、アフガニスタン、コソボ、広島、長崎、沖縄などで撮ったものだ。被写体となっている人たちは 男が少なくて、戦争に巻きこまれた母や妻であり娘である女たち、そして子供たちである。それは、大石さんが女性であるからではない。いつの時代も繰り返されてきたように、男たちは戦場に行き、殺し殺されるからだ。男らしさなどと称揚されるものが残すのはこれだ。
カンボジアでは、男たち とりわけ教職にあった人たちや技術者、芸術家などが、あろうことか 戦の敵ではなく自分の国の支配者に撲殺された。「女の国になったカンボジア」という大石さんのノンフィクションには、そういう国のありさまが描かれている。
]]>「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」/新井紀子 著/東洋経済新報社
つい先日までぼくは、この本の存在も著者の新井紀子さんについても まったく知らなかったのだが、たまたまYouTubeで 彼女をゲストに迎えた鼎談「教育をRethinkせよ」を見て 彼女に興味を惹かれ、「AI vs. 教科書を読めない子どもたち」/東洋経済新報社を読んだ。
既成の枠組みに捉われず自由にものを見ることのできる力も、行動力も卓越している。それでいてスキがある人柄がすっかり気に入った。
彼女は、2011年に「AIは東大の入試に合格するか」という、タイトルだけ見ると下らない課題に挑むプロジェクトを始めた。その10年計画のプロジェクトに挑むAIに「東ロボくん」と名付けたが、プロジェクトのほんとうの目的は 東大に合格することではない・・・AIを どう育てるか、AIには何ができて 何ができないかを知り、それを分かりやすく伝えようとしたのだ。
その結果として得たことを彼女は明快に言い切っている・・・AIが東大入試に受かることはない、と。
しかし、もうひとつ・・・いまの教育を続けるのであれば、 日本人に限らず過半の人間はAIに仕事を奪われて、失業するか極めて価値の低い労働をさせられる、 したがって安くこき使われることになるとも言い切った。
しかし、新井は ここでは終わらない。その問題を克服する方法を発見し、いま、それを広めようと奮闘している。
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夕紅が空を染めた元旦、無秩序に犇く建物たちも樹木も電柱もそして富士も
一枚の切り絵に変わりました
昨年6月に、シベリアで38°Cの気温が計測され平均気温も4℃上昇しているとBBC NEWSのサイトが取り上げて、山火事の激増や永久凍土が解けていると伝えましたが、ぼくには、永久凍土の中に何万年も冷凍保存されてきたウィルスたちが目を覚ますありさまが思い浮かんで仕方ありませんでした。
いま押し寄せているウィルスは、いずれワクチンが人体から追い出すでしょうが、温暖化は新しいウィルスを次々と目覚めさせ、切り拓かれた森はウィルスを追い出し、次々に人間世界にやってくるでしょう。
ウィルス感染を防ぐには、新しい奴が来るたびに いちいちワクチンを開発したり市民の自由を束縛したりし続けるわけにはいきません。気候変動を抑えて新しいウィルスの発生を防ぐのが 根底的で平和的な解決法に違いありません。それには際限ない成長との訣別と国際的な協力が欠かせないのですから、平和は欠かすことができません。
]]>学術会議の会員任命拒否に対して、イタリア学会が 立派な声明を出したと、日頃から辛辣な物言いをする社会学者 宮台真司が称賛するのをYouTubeで聞いて、ぼくは声明の 内容を知りたくなった。
イタリア学会の公式ウェブサイトを開くと、藤谷道夫会長の名で 10月17日付「日本学術会議会員任命拒否についてのイタリア学会による声明」が見られる。
門外漢にも分かるような古代ギリシャやローマの人名や出来事をあげながら、学問の普遍性と、権力に対する批判が 権力そのものにとってさえ必要とされたことを説き、そもそも学問は国家や時の権力を超越した真理を探求するものであり、あまねく人類に資するものであると指摘している。
]]>ただ言葉が間違っているというだけではない。
その新聞を残しておいたのに見つからなくなったが、そこで彼女が指摘していたのは、そもそも ディスタンス(距離)ではなく、距離をとってくださいと求めるならディスタンシング(距離をとること)とするべきであるし、求めるべきは、ヒトとヒトの物理的な距離をとる「フィジカル ディスタンシング」であるとということだ。対概念と言うべき言葉を取り違えているのだ。
]]>
たまたまYouTubeで「白井聡」をキーワードで検索すると対談が見つかったが、これが じつに興味深い内容だった。
ぼくはこの制度を渋谷区が始めたことは知っていたが、この号を見るまで 中野区がパートナーシップ制度を導入したことを知らなかった。いまさらながら調べてみると、中野区が始めたのは2018年9月6日、全国で9番目だ。中野区長選挙で自公維新推薦の現職候補を破って、もと中野区職員だった酒井直人氏が区長に選ばれたのが2018年6月だから、この制度は 前区長の時に作られた、超党派のものだったのだろう。
ぼくが自宅から仕事場にむかうルートは 三つある。
ちかごろは、コロナと出くわす機会を減らすべく自転車に乗ることが多いけれど、電車に乗るには、北にむかって地下鉄大江戸線か 南下して西武線か、いずれかの最寄駅に行く。
南下ルートの途中に、玄関前の駐車場脇にキンカンの木がある家があって、木は 年中青々として球形に近い樹形を保ち、季節になると鮮やかな黄色をちりばめるのが、この通り道の楽しみのひとつだ。
この家のひとは、キンカンの味よりも木の姿を大切にしているのだろう、実が落ちるまでこの姿を保ってくれる。
]]>花咲きぬ
集えよあまた
我が谷へ
やおのひとびと
ひと葉もちより
あべのおとどしんぞうの、長門のくにのひとびとに詠める
*註
「吾が谷」:伝 オオタニin 四谷
「やお」:八百なり
「ひと葉」: 狸の自在に金に変える葉、また 樋口一葉(5000円札)
*写真は
2月に剪定した叔母の家にある桜の樹を 植木屋さんが剪定したときに捨てようとした枝を拾って
紹興酒の甕に生けておいたら、2週間ほど前に開いたときに撮ったものです。
このごろ流れ始めたホンダの新型FITのテレビCMを見て、ぼくはウェブサイトをひらいた。久しぶりにクルマに好印象をもった。
いや、スズキのジムニーやホンダのS660だけは、ほしいとも思う。
しかし、いずれも、オフロードや二人乗りオープンという限定されたカテゴリーだ。FITは、ホンダの重要な部分を担う車種だ。
それが、気の強さといたずらっ気を秘めてこちらを見ている表情は 奈良美智の描く女の子を思わせる。
発売日を2月14日のバレンタインデーに設定している。
それは 競争より愛 という思いを込めているのだろう。目が大きくなり 口もとが柔らかくなった。内部のデザインも余計な凸凹を減らしていて心地よい。
何年も前から、クルマの人相がすこぶる悪くなって、メーカーは そのまま変えようとしない。大部分が 目をつり上げ、歯をむき出す。大きいクルマ高いクルマには威嚇する奴がいる。
そこに技術的な理由があることは、容易に理解できる・・・ヘッドライトの光源が白熱灯からLEDに代わり、鉄板の加工技術が向上し CADが進歩したために凹凸や切れ込みの多い複雑な形が作りやすくなって、その技術を使おうとしたからだろう。
しかし、同じ理由から別のデザインが生まれたっていいはずだ。あえて こんなデザインを選ぶのは、排他的で戦闘的であることが買手の欲求を刺激すると、メーカーは考えているわけだ。
]]>決して楽しい映画ではないからだろう、つい観そびれていたのだが、上映館を探すと アップリンク吉祥寺が、日に一回だけ上映していた。
デザキは、従軍慰安婦問題を題材に日・韓・米で関係者にインタビューを重ね、おそらく、ひとりに一回ずつ撮った映像を切り分けて再構成した。それは ドキュメンタリーとしてはあたりまえの編集だが、デザキは、それを モザイクのように小さい断片にして テンポよく並べて見せることで、ぼくたちの頭の中に 彼らが一堂に会し「従軍慰安婦問題」を冷静に議論している場面を組み立てた。
つまり、主戦場は僕たちひとりひとりの中にあるのだ。
もし 彼らが一堂に会して議論したら 相手に勝つことが目的になって、怒りや憎しみに支配されただろうが、この映画に登場する発言者は 自分の主張を冷静に語る。ケントギルバートや杉田水脈が この映画を見て、だまされたとしてデザキを告訴したというが、むしろ彼らはデザキに感謝すべきだろう。
そもそも映画という技術は画像の残像を利用したものだが、短く切り分けたインタビューの映像の記憶が残っているうちに 速いテンポで続けていくという構成は、「映像」の残像を利用している。デザキは、話し手の主張を曲げるためでなく、冷静な論議の場を作り出すことによって問題の本質を明らかにしようとして細分化と再構築という方法を取ったのだ。
映画を見たあとに映画館の中を歩くと、もうひとつ興味深い発見があった。この映画の構成は、アップリンク吉祥寺の空間の構成に似ているのだ。
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新年あけましておめでとうございます
しばらく前から
年賀状のデザインは
一陽来復・干支・太陽・青海波の文様で作りました
しかし、今年はねずみではなく
iPhoneで待ち受ける犬の写真を使い
一陽来復には、前倒しで桜をつけ加えました
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第一回の相手は鶴見俊輔、第二回は堤清二にはじまって相手は数人が替わるのだが、とりわけ一回目の鶴見俊輔との話が面白い、感動的でさえある。
1945年7月、日本の無条件降伏まで あとひと月という時期に 日高は海軍技術研究所にいた。そこで日高は自由な提言を求められる。そのときに書いた提言の原稿を、鶴見は番組で初めて目にしたようで、その内容と、日頃の日高のおだやかさと比した文章の激しさに驚きを隠さない。
このふたりは、いずれも青春時代を外国で育った。
鶴見は中学から大学までアメリカで学び、日高は外交官の息子として青島に生まれ 中学までそこで育ち、中国人に対する日本人の傲慢な態度を目にしていた。しかし日高家は、「シナ人と言ってはいけない、中国人と言いなさい」と 父が子供たちに言うような家庭だった。
]]>「デモクラシータイムズ」は、YouTubeで誰もが見ることのできるまっとうな報道メディアのひとつだが、その中に 「世界を変える100人の働き人」というインタビューのプログラムがある。
ゲストの選び方も話のきき方も興味深いのは、インタビュアーである池田香代子がおそらくゲスト選びも自分でやっているからなのだろう。ぼくは 数ヶ月前に気づいたことだが、このタイトルは 彼女が翻訳した「世界がもし100人の村だったら」に因んだものなのだ。
20人目のインタビューのゲストは、ミキ・デザキという日系アメリカ人、「主戦場」という興味深いドキュメンタリー映画を製作監督した人である。4月20日から、東京なら渋谷のイメージフォーラムで公開しているが ぼくはまだ見ていないけれど、このインタビューを見て 必ず見ようと思った。
デザキは、かつて2年間 山形の高校で英語を教えたときに、日本人が 自分たちの行う差別について自覚が乏しいのを知り、それを契機にこの映画をつくるに至ったという。人間に対する人間による「差別」という問題に向き合うために、彼は きわめて困難な題材を選んだ。
面白かった。
戦後の沖縄で アメリカの圧倒的な力の支配に抗うことによって、自己と沖縄を必死で構築してゆく若者たちの物語である。
タイトルは「宝島」というものの、一攫千金の話でも浮わついた夢物語でもない。「ヌチドゥタカラ:命が宝」という沖縄のことばがあることを ぼくたちも知っているけれど、おそらくこれは そこで言う「宝」なのだ。
戦後沖縄で起きた米軍がらみの事件を下敷きに、いわゆる沖縄返還の頃までを時代背景にしている。いや、本当の主人公は「沖縄」そのものなのかもしれない。
ぼくは2回も電車を乗り越すほど 夢中になったにしては、読了まで1週間以上かかってしまった。
沖縄の出来事を憶えてはいても、そのときの沖縄のひとたちの思いを知っている訳ではないから、読み始めのぼくは さながら 見知らぬグループのデモに紛れ込んだようで 心から共鳴することができないままだったからだ。
とりわけ、この物語の軸をなす「戦果アギヤ−」(戦果をあげる者たちといった意味だと書かれている)という言葉は、この本で はじめて知ったものだった。家を焼かれ家族を殺され土地を奪われた沖縄の 敗戦直後の若者たちがつくったチームが、綿密な計画を立てて米軍の基地に潜り込み、物資を盗んで来るのだ。
これがフィクションなのか歴史上の事実であったのか ぼくは分からず、 したがって どう受けとればいいのか定かでないままに読みすすめていた。
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世界中の人々が見ているIOC総会の壇上で、福島の原発の汚染水は完全にコントロールされていると、公然と嘘をついた人物が、いまだにぼくたちの国の代表者であるだけでも耐えがたいことだが、彼はNHKの討論でふたたび あからさまな嘘をついた。その間にも彼はたくさんの嘘を言い続け自殺者さえ出しながら平然としているものだから、またかと思うだけですまされてしまいそうで心配でならない。
■私の戦争 元米兵は語る ベテランズ・フォー・ピースに訊く/デモクラシータイムズ(インタビュアー山田厚史・2018.10.18収録2019.1.17YouTube公開)
■ウーマンラッシュアワーの村本さん、ハンスト中の元山県民投票の会代表を訪問(2019.1.16公開)
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あけましておめでとうございます
本年もよろしくお願いいたします
イチヨウライフクカデンイノシシニテンジ
イチジンケッキリカニカゲヲアキラカニス
と詠むつもりです
]]>真夜中、枕元に寝ていたルーが 起きるなり部屋を飛び出し、なにやら緊迫した気配と物音に目を覚ました長女が、慌てて廊下にいってみると ルーは前足でネズミをおさえている。
ネズミをくわえて食べそうになったので、あわてて首輪をとって引き離した・・・翌朝ぼくは、ことの次第をLINEで知った。
ルーは、ひと月あまり前に長女がひきとった犬、獣医さんたちによれば2〜4才くらいらしい。
やってきて二・三日で、あきれるほど彼女になついた。留守番させて近くに買いものに行き 帰ってくると、クルクルクルと回り あらん限りの力で尻尾を振り、手といわず顔と言わず ペロペロと舐めて、まるで何年も離れていたのが生還したような喜びようだ。
長女に対する愛情は別格だが、すこぶる人なつっこいから 来るひと誰もが可愛がってくれる。ぼくがソファで寝ていると、足もとに置いた毛布の上で眠っているが、目を覚ましたと知るや横にやって来て左手を挙げ 腕をつつく。頭や喉をなでたり首をかかえたりしてやるとうれしそうにしているが、やめると また左の前足で催促する。数分ほど そうやっているうちに、こちらも目が覚めて、彼女も満足する。
そういう女の子がネズミに遭遇するや、にわかに野生に戻ったように、俊敏で攻撃的な肉食動物になったものだから、娘たちは驚いた。ぼくはそれを聞いて 驚く以上に ますます気に入った。
]]>ぼくはすぐに好奇心がふくらんで 行きたいと即答したが、恥ずかしながら「オフグリッド」とは初めて聞くことばだった。
とはいえ、太陽光で発電した電氣を電力会社に売らずに、そのまま自分で使うのだろうくらいの想像はできる。組織に拘束されず 独立のシステムをつくれるという爽快感もある。
オフグリッド太陽光発電とは何か、どう組み立てるのかを知るには、よくできたワークショップだったと思う。
中央本線高尾駅から各駅に乗りかえて2つ目の藤野駅で降りる。道を4〜5分下ると視界が開けた。快晴の相模湖のほとり、橋のたもと、雑然とした駐車場の奥にある倉庫にすぎないようだが、藤野電力の背後には相模川ー相模湖が広がっている・・・巨大な壁をつくって水を貯め、それを落とした勢いで発電するのを尻目に、薄いパネルで電氣ができるのだ。
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「タクシー運転手」がギンレイホールに来た。
「日本は、これからあんな風になっちゃうのだろうかと思うけれど、ぜひ観てほしい」と 悲観的にすすめられたが、ぼくは むしろ映画に勇気づけられた。
こんな軍事政権に支配されていた韓国が、40年足らずで 現在のような経済状況と自由を手にしたのだから。
1980年5月、東京からソウルにやってきたドイツ人カメラマンを、彼が何者かも知らず、光州で何が起きているかも知らず、ただ長距離の上客と思いこんで金浦空港から光州まで車を飛ばしたタクシー運転手が、やっとのことでたどり着くと、軍隊が丸腰の市民を相手に銃撃している。
さながらサイコロを転がすように、たまたま拾った客の求めるままに行き先が決められるタクシー運転手。そうした人物が主人公であることによって、ぼくたちも 日常生活に追われる平凡な市民になって歴史の渦に巻き込まれてゆく。
だが、これはフィクションではない、 実在したドイツ人カメラマンと韓国人タクシー運転手の出会いをもとにしたものだ。だからこそぼくたちは引き込まれる。
]]>はじめは なかなか物語に入り込めないのだが、やがて、車中で読みふけって電車を乗り過ごしてしまうほどに熱中して 2日あまりで読み終えた。
宮崎駿が、もう長編はつくらないという宣言をひるがえした時には驚いた。
もうつくらないと言って、しばらくするとつくりたくなるというのは、これまでにもあったことだが、「君たちはどう生きるか」と大上段に構える説教臭いタイトルに驚いたのだ。
しかし、その原作が吉野源三郎のあの本で、すでに マガジンハウスから出ている漫画と挿絵入りの小説は いずれもベストセラーになったときいて 興味津々になった。
岩波を代表する人物である吉野が書いたこの本の存在を知っていても、読もうとしたことすらなかった。
やがて娘が買って来て読んでいたから、終わったら貸してくれることになっていたのに、どうも失くしたようで、だからといって買い直す気にはならないのも分かるから、プレゼントした。ぼくの魂胆は娘も分かっているから、先に読んでいいと言うので、ぼくが先に読むことにした。
]]>今日は、中野区の区長と新潟県の知事を選ぶ選挙の投票日だ。
中野区はぼくの住むところだし、新潟県には実家があって、いずれも他人事ではない。
自公明の推す候補は、いまの世の中を劣化させている安倍モデルを踏襲しようしている。
新潟県では東電の柏崎原発を再開しようとしている人物を推す。経団連の会長にイギリスの原発をつくろうとしている日立の代表が就任し、三菱重工の社長は原発に力を入れると発言し、世界とは逆の方向に舵をとって歩調を合わせる狂気の沙汰。
中野区では、オリンピックのために旧刑務所の樹木を伐採してしまったし、サンプラザを壊してアリーナに建て替えようとする4期目の現職。
野党が連合して推す首長候補は、いずれも、地方公務員の出身で、先日、中野駅前に枝野幸男・長妻昭が候補者の応援に来たとに聴衆の掲げたオレンジ色のメッセージボードが印象的だった。
一方は、生活環境を劣化させるが金を落とすことを売りものにして、他方は市民の生活をよりよくするよう政治のありかたそのものを作り直そうと訴えるのだから、両者の次元は離れている。
マスメディアも政治家も口にすることができない禁句だが、このありさまを招いたのは、有権者が投票せず考えもせずに投票する・・・愚かだからだ。
メッセージボードは、それをおだやかに「GO VOTE 試されているのは有権者だ」と訴える。
]]>一昨日、よき日を祝うために近くのスーパーマーケットに行って、この白ワインを一本買ってきた。
なにしろ「日本と日本の人たちが好きだから、国民の一部になりたい」なんて泣かせることを言ったイニエスタが 正式にJリーグのヴィッセル神戸と契約を交わした日なのだ。
国民や国のことなど考えもしないこんな首相と 情けない政府が支配する国だというのに、そんなことを言ってくれるいいやつ。
しかも イニエスタは、バルサの若い選手に機会を与えたいとチームを退き、バルサとは闘いたくないから アジアのチームに行きたいと言ったそうだ。東京でなく神戸に住むほうが家族も気持ちよい生活ができるだろうし 長く日本に腰をすえてほしい。
ヴィッセル神戸は、ただの商売や気まぐれでイニエスタを獲ったわけではない。
三浦淳寛をスポーツディレクターにすえて本気でチーム改革をしようとしているという記事が 先日、Numberに掲載されたばかりだ。
イニエスタは、契約時の会見で「三木谷さんと三浦さんに感謝する」と言ったくらいだし、ワールドカップに優勝する前からドイツ代表チームでフィジカルコーチをしていた咲花正弥をコーチに迎えていた。(「ヴィッセルが進めるバルサ化とは」/NumberWeb)
ぼくが料理用でなくアルコールを買うことは 滅多にないが、去年のバレンタインデーの頃に 事務所の近くのスーパーに、イニエスタのワイナリーでつくられたワインが置かれていることを知り さっそく行って 赤白一本ずつ買った。それがなくなってから買い足していなかった。
こんどは、赤と白に加えてロゼもあった。しかし、白だけデザインがかっこいい。ハート型にラベルを切り抜いてあって そこから瓶の中身と背中のラベルの裏側が見えるのだ。
中身には大きな関心があるわけではないぼくは 白を一本だけ買ってきた。かつて、イニエスタがワイナリーを持っていると聞いたときには、もともとあったワイナリーを買収したということなのだろうと思ったのだが、ウェブサイトを見ると工場の設備も施設も新しいようだし、どうも田舎の小さな村に新たにつくったらしい。ワイナリーのウェブサイトを開くと、工場も葡萄畑も動画で見ることができる(BODEGA INIESTA)
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毎年3月3日に、ぼくは ばらちらしをつくる。
つくると言っても、自分の手でつくるのは干し椎茸を甘辛く煮たり 海老や菜の花をゆでたり卵焼きを焼くことと、寿司酢をつくって飯に和えるくらいのものだ。
あとはさまざまな魚介と野菜を買ってきて、出し汁や 酒と醤油とわさびにくぐらせて薄く味をつけ、寿司桶にひろげた酢飯の上に散らすだけのことだ。
今年は娘が寿司飯をつくった。
さして手をかける訳でないにもかかわらず、ぼくをすこぶる楽しい気分にしてくれるのは、春の野を切り取ってきて 木の筺の中に生けるように感じるからなのだ。
そういえば、去年は 食べてから数日が過ぎて「方尺の春」だなと思ったのだが、今年も ひな祭りから数日たって、ぼくは去年の『方尺の春」という言葉を思い出した。
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先週末の夜おそく、もう寝ようとしていたとき、自宅のハードディスクに「ETV特集・長すぎた入院」という番組が残されているのに気づいた。
冒頭だけのつもりで見はじめたが やめられなくなって 1時間のドキュメンタリーを最後まで見てしまった。
ぼくたちの国でまたひとつ、かくも理不尽なことが行われていることに対する腹立たしさが、 眠気をすっかり吹き飛ばした。
冒頭から登場する主人公 「時男さん」は、39年間も精神病院に入院させられて 退院することができなかった。歩くことも話すことも考えることも、ひとの気持ちを推し量り思いやることもできるおだやかな人が、意志に反して病院から出してもらえなかった。
しかし、そこは 福島第一原発の近くに5つあった精神病院のひとつだった。
原発から5km圏内にあったために、患者たちは病院を出て避難することになった。転院先の病院で診察をうけたところ、時男さんのいた病院の患者40人のうち、2人を除き 他の患者は入院の必要がない、むしろ家庭に帰って生活する方がいいのだと医師が説明する。
長いあいだ 願っていた退院が、思いがけない事故によって実現した。時男さんは、「オレの、これまでの39年をどうしてくれるんだ」と言ってかつて入院させられていた病院の医師の胸ぐらをつかんで殴り飛ばすくらいの権利はあるがそんなことはしない。
彼は、ひとびとの責任を追及するよりも、40年ぶりに戻った自由を 胸に深く吸い込み、自動販売機で切符を買うことや、ATMをつかうこと カラオケで歌うことによって それを実感するのだが、それでも退院できなかった理由を探そうとする。
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先日、外出からもどってくると 机の上にコピーが1枚載っていた。
「神楽坂 清水流るゝ ■かな 紅葉」と、毛筆で一句書かれている。
この字は なんて読むんだろうと、ギンレイホールの加藤さんが置いていらしたという。
ぼくは こんな漢字を見たこともないし、そもそも この崩し文字を読み取ることがあやしい。
MacBookの文字パレットを開いて「部首検索」で探すと、出てきたのは「膩」という漢字だった。
音読みは「じ」訓読みは「あぶら」。
神楽坂 清水流るる あぶらかな
ということになるが、なぜ「あぶら」なのか?
「『膩』という字らしいが、澄んだ水に油が浮いて虹が流れてゆくということでしょうか」と、加藤さんにショートメールを送った。
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新年おめでとうございます
今年もよろしくお願いします
WEB年賀状は、文字通り元旦に送信してすぐに届くことが気に入っていたのですが、今年は、私事で ことのほか作業が遅れ、正月三日に送信することになりました。「一陽来復 六合遍く昭か」と、読むつもりです。
シルエットの戌の右にいるのは申、一昨年の賀状につかった「くくり猿」です。
申しあげるまでもなく犬猿の仲の者たちが他者を認め合って共生するほかに人類の未来はないとは、心あるひとびと だれもが思い願うことでしょう。
年号を西暦でなく平成にしたのは、独裁と軍備につき進もうとしそうな われわれの行政府に対して、明仁天皇が 憲法の定める矩の中で できるかぎりの力をつくされた30年へのささやな感謝と敬愛のしるしです。
30を「参拾」と書くと、「参」は戦地へのお参りを「拾」は ひとびとの思いを拾いあげることが目に浮かびます。
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原書:FOOTNOTES* from the WORLD'S GREATEST BOOKSTORES
ふた月ほど前に 駒ヶ根の加嶋裕吾さんが、いい本を見つけたといって 書名をメールで教えてくださった。
本屋についての本だから「かもめブックス」に置いてあるだろうと行ってみたが、在庫がないというので取り寄せを頼んだ。裕吾さんは、鑑識眼を信じている人のひとりだし、まして彼は もともと出版社の営業をしていた人だから、ぼくは実物を確認せずに注文した。
2週間ほど経って、本の届いたことをしらせる電話がかかってきた。
ここに登場する本屋は、主にアメリカの それもニューヨークが多い。魅力的な本屋と そこに来た客や店の店員にまつわるエピソードを、雑誌「ニューヨーカー」にイラストを描いているボブ・エクスタインが、イラストと文章を書いた おとなのための絵本だ。
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さきの選挙では、自民党が2/3議席を占めた落胆と、進んで投票できる政党ができたよろこびが交錯したが、その翌日10月23日に「民衆の敵」という連続テレビドラマが始まった。
若松孝二の映画「キャタピラー」などを書いた脚本家の 意欲的なドラマらしいと娘が期待しているので録画予約しておいた。安倍政権に協賛しているフジテレビから放映されるということにも興味を惹かれた・・・NHKであれ読売であれ、上からの圧力に屈しない人がいるということなのか。
録画を見てみると、おもしろい。
このドラマと、それを活用して政治について知ろうと呼びかける女子学生たちを、先日の東京新聞夕刊が紹介していた。
彼女たちは「#民衆のミカタ」というTwitterのハッシュタグをつくり、その日の番組の内容について 地方議会の若い現役女性議員にインタビューする動画を番組放映の前後にYouTubeで流している。
内閣支持率が低いにも関わらず 与党が圧勝したのは、投票率が低いせいであることを考えれば、これは注目すべき活動だ。
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行きつけの図書館の玄関に本棚が置いてある。そこには「ご自由にお持ち下さい」と書かれていて、毎月一度、廃棄される蔵書が置かれるから、その日に巡り会うといつも一応は目を通すのだが、10月1日は日曜日だが時間があまりなかった。そのときすでに出発時刻に遅れている「安倍政権強制終了デモ」の前に寄って、本を返そうとしていたからだ。
この日の本棚には「岩波講座 日本歴史」全24巻のうちの15冊が並んでいた。12巻以降が欠けることなく揃っているから、江戸時代後半から戦後にいたる日本の大転換時代すべてがあるわけだ。
自分の不正の追及を避けようという 安倍晋三の個人的な動機で解散された衆議院の選挙が、結果如何によっては日本の歴史を悲惨な道に導くかもしれない この時期に、よりによって日本の歴史が捨てられることに出逢ったのも何かの縁だと思い、本の置き場はあとで考えることにして、とにかく すべて自転車の荷台にゴムの紐でくりつけて持ち帰った。
]]>候補者は、だいぶ前から民進党のポスターで蓮舫と並んだ写真で見た顔と名前だが、 整いすぎている顔のおかげで かえって人物の中身が心配になるような印象があった。
西武新宿線 中井駅ちかくの つぶれた飲食店とおぼしき店舗が、ちぎれたテントの庇も残してそのままにして事務所にしている。ぼくは それが
もと民進党だった候補者たちは、立憲民主党か「希望」か 無所属に分かれたから、所属によって人物が読み取れる。どの党なのか確かめようと選挙事務所まで戻った。
立看板には政党名がないが、ポスターには書かれている。立候補は決めていただろうが、政党がはっきりしないまま宙ぶらりんだったろう。
ポスターに「立憲民主党」
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それを言うなら、碑文の「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑」という表現の曖昧こそ問題にすべきだろう。これでは、災害で亡くなった人たちも含まれるようではないか。
デマに踊らされた日本人によってリンチで殺された朝鮮人を、地震で家屋の倒壊や火災で亡くなった朝鮮人と一緒にするような表現によって、リンチで殺された人たちの人数の不確かさと相殺したのだろうか。それはそれで、敢えて傷を露わにしないという大人の表現かもしれない。
しかし、そうではなく、不確かなものは不確かなままに表現するとという意味で厳密に書くとすれば、碑文を「関東大震災朝鮮人虐殺被害者追悼碑」として、説明に「六千人余り」と書いたのを「数千人」と書き替えるのがいいだろう。
つまり、厳密な犠牲者の数は大きな問題ではない。たくさんの朝鮮人が、多くの場所で、デマに煽られた日本人の市民に殺される・・・という同時多発行動をひきおこすだけの精神的な土壌が、日本人にあったということが問題なのであって、ぼくたちは、たまたまその時代その場所にいなかったけれど、まったく無縁のできごとではないのだ。
つい先日も、小池百合子と「市民ファーストの会」が衣の下の鎧を見せた。
知事選挙では「都民ファーストの会」を旗印に 勝ったが、夏の国政選挙では「日本ファーストの会」にすると言い出したのだ。「都民ファースト」というスローガンは利権に群がる連中のためでなく、ひとりひとりの都民を大切する行政を行うという意味であるとだと信じて投票した人が多いだろう。しかし、「日本ファースト」といえば、「USAファースト」と同じく国際協調でなく自国の利益を第一に考えるということだ。「都民ファースト」を国の全体に拡げるなら、「国民ファースト」であるはずだ。
この記事を見て ぼくは中川五郎の「1923年福田村の虐殺」という歌を思出した。
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先週、岩上安身が主宰する ニュース・ウェブサイト「IWJ」 に会員登録した。
いまさら 登録したのは、3人の人物のインタビュー映像を見たかったからだが、もうひとつ、岩上が ことあるごとに訴えるIWJの財政危機を、ささやかながら応援したいと思ったからでもある。月々1000円でも 数があつまれば力になるだろう。
IWJの報道はインタビューを軸にしている。複数の人間による討論は、様々な方向から問題を見ることができ、しかも 一種の競技の場となって面白いし、不偏不党の建前もできる形式だ。だから、多くのテレビ番組は バラエティ番組になるというわけだ。
しかし、討論は内容でなく論争に勝つことに話が歪められることが多いし、ものごとを深く掘り下げて考えるには、インタビュアーとの一対一で、充分に時間をかけて 訊くべきことをききだしつつ 話し手の言いたいことを話させてゆくのがいい。
インタビューを見たかった3人というのは 郷原信郎・寺脇研・望月衣塑子だ。
IWJのインタビューの多くは、冒頭の10分前後が 会員登録しなくても見ることができるのだが、それらを見て ぼくは 終わりまで見たくなった。寺脇研のインタビューなど 実に4時間を超えて、思いのたけを語りつくしてくれる。それを、26日からの3日間21時から、3回にわけて再公開する。
・郷原は検察官出身の弁護士、 評論のほかに小説まで書いている。特捜による捜査権の濫用を批判し内部告発をしてきたことに 僕は興味を持って 信用できる人だと思ってきた。
・寺脇研は もと文科省の官僚で、かつて「ゆとり教育」を先頭に立って進めたが、「反ゆとり」の攻撃によって居所を失い退職。文科省時代には4年後輩に前川喜平がいて、いまも親交がある。
・望月衣塑子は,官房長官会見の獅子奮迅の追及で いまや知らぬもののない東京新聞の記者だが、以前にも アベノミクスの軸のひとつである武器輸出の問題に切り込んだ著書「武器輸出と日本企業」がある。
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JRの中吊り広告の小さな紙面からはみだしそうな 大男の大笑いが大写しになっているのを見て、ぼくは思わず好意的な笑みを浮かべたに違いない。アップルのファンは たいていの人が大好きな、パーソナルコンピュータの産みの親 スティーブ・ウォズニアクだもの。写真の右下にはWozとサインがある。
いちばん下には「はたらいて、笑おう。」というメッセージがある。ウォズの言葉と思わせようとしているのだろう・・・が、それだけでは 何の広告なのか分からないのだが、となりに対として並んでいる高齢だが 生き生きとした表情のきれいな女の人の写真にも同じメッセージがあることで、それが写真の本人の言葉ではないことが分かる。
小さく「PERSOL」と書かれているロゴがメッセージの発信元らしい。そこで、人材派遣会社の広告なのだろうと感じた。電車は、中吊りの他に壁の広告も、ことごとく同じ二種のポスターで占められていた。
ポスターとしてはおもしろいと思う。しかし、ウォズをこんな広告につかうことを、ぼくは腹立たしく感じた。これをつくった人々は「はたらかせて笑おう」と思っているはずだと感じたからだろう、ぼくは iPhoneを取り出して一枚だけ写真を撮ったが、あとになって それを見ると、前景に吊革を入れて PERSOLの文字を隠していた。
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先週のはじめに本間さんが電話をくれた。
「新しいVRメガネでGoogle Earthを見ると、すごいよ。見に来ない?」というのだ。VRとはバーチャルリアリティ(仮想現実)のことだ。彼は、ぼくがGoogleマップやGoogleEarthを大好きなのをよく知って言っているのだから、きっと面白いに違いない。
29日に行くと言ったつもりだったので前日に電話をすると「日にちは決めてなかったから29日は国立公文書館に行くことにした・・・日本国憲法の実物を展示してあるんだ、でも、うちに来るなら公文書館の予定を変えてもいいよ」と言ってくれた。
そう言われると、5月7日で会期が終わるというし ぼくも日本国憲法の原本を見ておきたい。けっきょく 昼に公文書館に行ったあと 本間さんの家に行き、Google EarthのVRを体験させてもらうことになった。公文書館は竹橋の近代美術館のとなりで、本間さんの家は横浜にある。
展示してある実物は 当然のことだが ガラスケースの中に開いて置いてあって、ページを繰ることができるわけではない。展示されているのは、署名のページだった。たしかに、条文そのものは 本で見ようとネットで見ようと 内容に変わりはないが、署名は、その紙にその人が思いを託し じかに書いたものであるから、実物であることが想像を拡げ深める。
この日が昭和天皇の誕生日であったことを、そのときぼくは忘れていた。昭和天皇の「御名御璽」につづき、首相兼外相 吉田茂をはじめ国務大臣 前首相の幣原喜重郎ら内閣の署名が並んでいるのを目前にすると、歴史の事実がここにあるという特別な感慨が浮かぶ。「御名」とは天皇自筆の署名であり 「御璽」が「天皇御璽」と書かれた天皇の実印であることを、このときぼくは初めて意識した。
ここに国務大臣として名を連ねている斎藤隆夫は、あの反軍演説の斎藤隆夫なのかと気づいた。早くから満州と朝鮮の解放を唱えた石橋湛山は大蔵大臣だが次のページにあるから実物はみられない。この内閣は、精一杯の反軍を結集したものなのだ。
原本の 天皇自筆の署名を目前にすると、戦争を拡大し暴走する軍部に怒り 戦争末期に終結の道を必死に求めたとされる昭和天皇が やっとたどりついた到達点であり、ここから新しい国つくりが始まる出発点であったことが実感されるのだ。
翌30日のNHKスペシャル「憲法70年”平和国家”はこうして生まれた」は、憲法の平和条項が国民の意に反するGHQの押しつけなどではなく、天皇をはじめ、学者・政治家・外交官など 戦時中から平和を目指し唱えていた人々の議論の結果としてつくりあげたことを、新しくみつかった資料によって実証する力作だった。日本国憲法が、どれほどきわどい奇跡的な状況の中で生まれたのか、どれほど大切で、簡単にこわしてはいけないものであるかを納得させると思う。
当時のGHQの中でも政府でも、さまざまに対立する主張があったように、現在のNHKの中にもさまざまな考え方が共存しているのだろう。
]]>「シチズンフォー スノーデンの暴露」の映画館上映を見逃してから だいぶ時間が経ってしまったが、レンタルDVDを借りにゆくと、おかげで準新作になっていていた。
この映画には、スノーデンが伝えようとした事実そのものの他に、2つの点でぼくは興味があった・・・スノーデンがどのような人物であるのかを自分の眼で見たい、そして 「暴露:スノーデンが私に託したファイル」に文章として書かれているときのことが、同じとき同じ場で映像という形式で記録されたものは どう違うのかを知りたかった。
ぼくは文章を先に読んでいたから、事実の経過や背景やスノーデンの意図については理解しているつもりだ。しかし、ひとの気持ちを読みとるのは映像で表情や話しかたを見るにはおよばない。
彼は メディアに携わる人たちの中から2人の人物をえらび、彼らを信頼するに足ると見込んで、ある情報を託すからマスメディアを通じて世界に公表してほしいとメッセージを送った。
CIAと NSAが、Facebook、Amazon、Microsoft、Apple、ATTなどのシステムに入って個人の情報や交信の記録を密かに蒐集している・・・その事実を示すファイルを持っていると伝えた。送られたメッセージには、信頼性を確認するため情報の一部が添付された。ちなみに、CIAは大統領直属の情報機関であり NSAは国防省の情報機関である。スノーデンは、その両方に勤務した。
上記の本は、この2人のうちのひとりであるジャーナリスト グレン・グリーンウォルドが書き、映画は もうひとりのローラ・ポイトラスがつくった。
はじめは2012年末、メールがグリーンウォルドに送られた。しかし 暗号システムの構築を求められたことをいささか億劫に感じたし、メールの情報が罠やガセネタかもしれないという可能性も捨てきれず 、グリーンウォルドは しばらくそれを放置していた。
翌2013年春、業を煮やしたスノーデンはポーラに連絡をとる。受けとった情報を本物と見たポーラが旧知のグリーンウォルドに声をかけて 交信を重ねたのち、ふたりは香港のホテル (The Mira Hongkong) に潜伏するスノーデンに会うことになって、この告発を最初に公表することになる「ガーディアン」からも記者が加わり、3人で部屋を訪ねた。
]]>ギンレイホールで見た「ベストセラー」という映画には「編集者パーキンズに捧ぐ」という副題が添えられている。
ニューヨークの五番街にあった老舗出版社 スクリブナーの名物編集者マクスウェル・パーキンズと、まだ無名だが才能と野心に溢れた小説家トマス・ウルフの間の父と子のような師弟のような愛情と信頼、反発や怒りを縦糸に、やはりパーキンズが担当して同社から代表作を出し すでに人気作家となっていたスコット・フィッツジェラルドやアーネスト・ヘミングウェイが横糸として登場する。
これだけの顔ぶれに、複雑な要素の重なった物語は、一本の映画の画面にはとても収まりきらなかったところがあるにちがいない。それを知りたくなって、映画の公式ウェブサイトに原作として紹介されていた「名編集者パーキンズ」という本の上下巻を図書館に予約した。
案の定、どころか 想像をはるかに超えるおもしろさだった。トマス・ウルフとフィッツジェラルドとヘミングウェイのところだけを読むつもりでとりかかったが、素人には馴染みのない作家のところさえ 面白くて、すぐに通読した。この三人の記述が8割がたを占めるから、そこを読めばおのずと全巻を通読することになるのだ。
ヨーロッパを荒廃させた第一次大戦のおかげで飛躍的に経済力を伸ばしたアメリカが恐慌を経てつぎの大戦へと階段を上るうちに、文化でも主導権をとってゆく世界の歴史でも重要な節目の時代を、同族経営の出版社という小さなステージから実感できる。
そのころから、東洋の果ての島国も アメリカのあとをそのまま縮小させたような足どりをたどりはじめ、のちに衝突して叩きつぶされながら、従属に安住するという 今に至る歴史の流れも、このころはとうに始まっていたのかもしれない。
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自宅の最寄り駅、西武新宿線新井薬師前駅には小さな駅前広場がある。
私鉄の小さな駅には 前後に踏切があることが多いから、改札を出て線路の反対側に行こうと踏切にいくと、たいていは遮断機が下りている。いま乗ってきた列車が通り過ぎているのだ。
それを待つのがいやなら 階段を上って駅の反対側の改札を出入りすればいい。
しかし、朝は 乗る人も降りるひとも時間に追われているから、階段をのぼって向こう側に渡るけれど、家路につく夜には時間の余裕があるから踏切を待つことが多い。だから 駅前の小さな広場にならぶ店がぼくたちをとらえる。
そこにある古本屋の、 安い本を入れた店先のワゴンの中に「特集 戦争中の暮らしの記録」という「暮しの手帖」があった・・・500円だった。やや傷んでいるが、これぐらいの方が 読んだ人を感じられるし 戦時中の暮らしの特集らしくもあるから、かえっていい。
NHKの朝ドラを見て、発刊当時にこの号を買わなかったことをぼくは後悔していたから この発見がうれしくて、奥にいるオヤジに500円硬貨を渡して、満足感にひたりつ道々読みながら帰った。
やがて放送が終わろうとしていた頃に買ったのだが、いまも まだ通読していない。とはいえ、雑誌というものはそういうものなのだから、受けとった印象が弱まらないうちに書いておこう。
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1月15日、プロダクトデザイナー榎本文夫さんのFacebookにこう書かれていた。
「1997年から始まった榎本アトリエのバカ年賀状シリーズ、こんなに余っていました。ご希望の方がいれば、フルセットで差し上げます!先着10名様まで、ご希望の方はメッセージで送り先をご連絡ください。」と・・・このシリーズは20年を区切りにしてやめるということなのだ。
正月にはがきの束が届くと、うちの家族は榎本さんの年賀状をたのしみに探すのが習いとなっていたから、ぼくはすぐにFacebookのメッセージを送った。玉井さんから申し込みが来るとは思わなかったと返信が来たので、先着10人にまにあったらしいと到着を楽しみにしていると、1月31日に 20枚の葉書が入った封筒が届いた。
寝る前に、ぼくは20枚の葉書を左上の1997年から右下の2016年まで4行5列にテーブルの上に年の順に並べて写真を撮って、そのままにしておいたから、翌朝ぼくたちは20年を振り返ることになった。
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昨年12月29日、NHK BS1で「明日 世界が終わるとしても」というドキュメンタリーシリーズが始まり、その第1回目が、アメリカに滞在して一枚の繪を描き続ける画家 池田学をとらえた「池田学 ペン一本 まだ見ぬ頂へ」だった。
池田は、3年前からアメリカの美術館の地階にある一室で 黙々と一枚の絵を描いている。彼の大作を描くには、水平に置いた紙に ペンで一本ずつ線を加えてゆく細密な作業と 絵の全体を見る構成の間を自在に行き来できるのが理想だから、広い作業台と高い脚立を置ける大きな空間は得難いものだ。この絵の全体は、上の写真のパネル4枚分の大きさがある。
だからこそ彼の絵は、ぼくたちひとりひとり 一日一日の経験や行動がひとつの大きな世界をつくっているということを実感させるのだ。
ここはウィスコンシン州の州都マディソンにあるチェイズン美術館(Chazen Museum of Art)。どんなところなのか 僕は知らなかったからGoogleマップで探すと、その前を走る道はユニバーシティ・アベニュと名づけられている。 湖のほとりにある この一帯には大学や研究教育機関があつまって、見るからに気持ちよさそうな環境がつくられている。池田には 仕事の場ばかりではなく、制作に集中できるように さまざまな環境が提供されているのだ。
美術館は、さらに興味深い仕掛けをつくった。週末と休館日の月曜をのぞく毎日 13:30から14:30まで、池田の制作している様子を入館者が間近で見ることができるようにしたのだ。ドキュメンタリーは、絵の完成日と定めた日までの最後の日々を伝えている。彼の描き方と表現するものは分ちがたく結びついているから、描く過程を見る機会をつくったわけだ。
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トランプのような人物が大統領選挙に勝った悪夢に、ぼくは しばし呆然としたが、もっと深刻な悪夢は アメリカという国が トランプを選ぶような状況に 陥っているということだろう。
ギンレイホールで、映画「トランボ」を見た。
赤狩りに抵抗した「ハリウッドテン」と呼ばれた映画人のリーダーで実在の売れっ子脚本家ダルトン・トランボを主人公にした劇映画だ。
ぼくは、この人の名前すら知らなかったから、彼が脚本を書いた作品の大部分は中学高校時代に見ていることに驚いた・・・ローマの休日、黒い雄牛、スパルタカス、栄光への脱出、ジョニーは戦場に行った、等々。
普通に考えれば、ハリウッド映画界を描いた この映画ほどアカデミー賞にふさわしいものはないと思うが、昨年のアカデミー賞では主演男優賞のノミネートにとどまっている。よほどすぐれた作品が他にあったのか、さもなければ 政治的立場から一票を投じなかったアカデミー会員が多かったのか。(因みに作品賞は「スポットライト 世紀のスクープ」主演男優賞はレオナルド・ディカプリオ ・・・まあ、これも悪くないか)
トランボは非米活動委員会の聴聞会に召喚され 監獄に入れられるが、ロナルド・レーガンやジョン・ウェインなどは赤狩りの先頭に立って、ハリウッド・テンから仕事を奪い映画界から追い出す側に立った。ぼくは、かつてジョン・ウェインの映画に胸躍らせたことを恥じた。
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本年もよろしくお願いいたします
「一酉(いちゆう)来復 忽ち鳳凰と成り 光 六合を満し 四海平安」
・・・と読むつもりです
ことし私個人は年賀状をお送りできぬ身とあって、事務所としてお送りします。
写真は新潟の海岸 海と太陽と海と佐渡 尾根に立つ鳥は平等院鳳凰堂の鳳凰
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毎年この時期の一週間、神楽坂では「まち飛びフェスタ」というイベントが開かれる。まちが飛ぶんじゃなくて、まちへ飛びだそうというんだ。
ギンレイホールは、「神楽坂映画祭」と銘打って この地にかかわりのあるテーマで選んだ映画を上映して参加する。
去年は、神楽坂に育ち いまも住んでいる加賀まりこの出演作を上映したが、今年は「新潮社から生まれた名作映画たち」というテーマで構成された。神楽坂に本社のある新潮社が出版した小説を原作としてつくられた映画を毎日5〜6本ずつ上映したが 今年も終わってしまった。
見たいと思う映画は数本あったのだが、じっさいに見たのは一本だけ、ふた月ほど前に小説を読んだから これだけは見逃すまいと思っていた「黒い雨」だった。映画というものは、小説を先に読んでから見ると物足りないものだが、これはそうではなかった。
映画が制作された1988年は 原作者 井伏鱒二が存命中であるし、今村昌平が監督だったからできたのだろうが、小説にはなかった人物を映画では登場させているし、小説には書かれていないできごともある。小説になかった視点をもって発言をする登場人物もいる。
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先日、電子的な世界にひどく詳しい友人 本間さんが来たときのこと
ネットで図書館の本を予約すると Amazonから その本に関わる広告が来ることがあるね と僕が言うと、彼は こう言った。
「Libronて知ってる? Amazonで検索して本をそのまま図書館で予約するアプリ。Googleで libronて検索してみて・・・libraryとAmazonをくっつけた名前」
・やったよ
「そこを開いてダウンロードして」
・ダウンロードした
「Safari か Chromeかを選んでインストールする」
インストールし終わると
「Amazonで、何か本を検索してみて」
と本間さんが言うので、ぼくは「黒い雨」を検索して開く
本やビデオが並ぶ中から 文庫本を選ぶと、書名の下にブルーの文字で「中野区の図書館で予約」とある。それをクリックすると、中野区立図書館の検索のフォーマットで「黒い雨」を選んだ状態の画面が開くのだ・・・おお!
コンピューターは自転車のようなものだと言ったスティーブジョブズの考え方に、いまも ぼくは強く深い共感を覚える。Macと自転車が 生涯の重要な友と思っているが、そればかりではない。
クルマの全自動運転の実現が近いというニュースを聞いたり、プロの棋士がやっとのことでコンピューター相手の囲碁で勝ったドキュメンタリーを見たりすると、ぼくは不安な気分になる。
人間がいちいち指示を与えなくともコンピューター自身が あらゆる状況を知りや目的を考え判断して動くことのできるAI(Artificial Intelligence:人工知能)を、コンピューターの究極の目標と考える立場がある。
それに対して、コンピューターは人間のもっている知的な能力を拡げるものだと位置づけ、それをIA(Intelligence Amplifier )という考え方があるのだと、僕は2年ほど前に知った・・・インテリジェンス・アンプとよんでおこうか。
それを知ったときぼくは 当然のように この自転車を思いうかべた。
古くから スティーブ・ジョブズは、「コンピューターは、ぼくたちの精神のための自転車だ」と言っていたし、1984年にはスーパーボウルのハーフタイムに歴史的なCMをTVに流した。
人間を支配する巨大な権力者をぶち壊してみせた このCMは「巨大コンピューターは人類を支配しようとするが、Macintoshはひとりひとりの人間の能力を拡げる」というメッセージを伝えようとした。むろん、ジョージ・オーウェルの「1984」が背景にあるし、その独裁者はIBMを念頭に置いたものであるのはいうまでもない。
]]>ひと月ほど前に、膝と足首と手首が痛いことに気づいた。
これまで、それぞれ別のときに痛みがあったのだが、それが一緒にいたくなってきたと気づいたのは、間抜けな話だが 事務所の近くの診療所で、受診用紙に膝の痛みを書いているときだった。
もらった薬を飲んで外用薬をつけたら、いまはだいぶよくなってきたのだが、もしかすると 関節の痛みは自転車のせいかもしれないと思いはじめた。
シフトダウンせずに坂を上ればスピードを出さずに体を鍛えられるから安全じゃないかと思い 実行して数ヶ月、じつは関節に負担をかけていたのかもしれない。
ぼくと同じように 自転車の方も、このところ 後輪がカラカラと軽い金属的な音をたてるようになった。回転軸がブレているのはたしかなんだが、いろいろと試しながら調べても どこから音が出るのか分からない。
いつも行く西早稲田の自転車屋エスビットに行くと「どうしましたか」とお兄さんがドアを開けてくれた。
状態を話すと「たぶんスポークが緩んでいる。小一時間かかりますがいいですか」という。早稲田の大隈講堂前にあるキャンパス内のカフェで 本を読んだりfacebookに書き込みしたりして戻ると、作業は終わっていた。
店には、ちょっと興味を引くものがあった。ロードバイクに電動アシストをつけた自転車、ヤマハのYPJ-Rという。「意外に面白いから椿山荘の上までのぼって来ませんか?」というから、試乗させてもらった。
アシストバイクは、デザインを出し惜しみして不細工にしてるのではないかと思うくらい、どれもこれも つまらない鈍重な代物だが、その水準からすると、これは自転車そのものがかっこいい・・・というか、普通にロードバイクだ。アシストバイクで先頭を走っているヤマハがつくったという、アルミフレームのロードレーサーのフレームにバッテリーを貼付けたようなデザインはあたりまえのものだが、他のものと比べれば群を抜いている。
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インターネットや携帯電話でかわされた通信を、情報機関がことごとく入手し保存して あらゆる人の行動を監視するという事態が、いつかどこかの独裁国家で起きるだろうとは、多くの人が思っていただろう。
それが 自由を標榜するアメリカ合衆国によって現実に行われている。このままでは、ときに邪悪になりうる強大な力を持つ者 神ならぬ者によって つねにひそかな監視を受けながら、人々は生活しなければならなくなる。
いまのうちに なんとかしなければならないと、エドワード・スノーデンは命がけで声を上げた。
「暴露:スノーデンが私に託したファイル」は 3つの章から構成されている。
1章では、重要な情報を伝えたいというEメールを著者が受けてからスノーデンに会って直接に話を聞き、膨大な資料を入れたUSBメモリーを托される。それを公開するまでのスリリングな物語。とにかく面白い。
2章には、スノーデンが持ち出した具体的な資料の数々によって どのような組織のどのような人間が情報を求め利用したかが具体的に示される。いわば証拠の提示。
3章では、情報組織はこのように常時監視することによって何を得るのか、逆に 常に監視される人々はどのような影響を受け何を失うのかを指摘する。
国家機関が重大な背信行為をおこなっていることを、そこに勤務する公務員が職場から持ち出した資料にもとづいて公に示せば、彼自身は法を踏み越えることになる。その時、どれほどのものを失いどんな報いをうけるかは容易に想像がつく。
スノーデンは、みずからの現在と未来の仕事や地位も、これからの生涯にわたる行動の自由も、ことによると生命すら危うくするという代償を覚悟の上で、NSA(アメリカ国家安全保障局)の、つまりアメリカ合衆国政府の行動を内部告発した。
どのような言葉も、それがどのような人物が語ったかによって意味も価値も違う。NSAの前にはCIA(中央情報局)に勤務していたスノーデンの行動は、個人的感情によるものではなく、意味と影響を冷静に見極めたものだった。彼は、CIAで得た情報も持っていたはずだが、公開はNSAの情報だけにしぼった。
CIAには、さまざまな国さまざまな組織に、身分を隠して身を潜める人たちがいる。彼らについての情報が公開されれば、エイジェントたちには生命の危険をふくめて大きな影響がおよぶ。それを配慮して、あくまでもNSAによるネット情報の傍受蒐集に限ったのだ。さらに、当初から自身の氏名と身分を明らかにしようとしていたが、それは、データを持ち出した人間を当局が特定するために、関わりのない人を俎上に上げることを極力防ごうとしたからだった。
スノーデンの人柄がよくわかる。
]]>卵をめぐる祖父の戦争/デイヴィッド・ベニオフ著/田口俊樹訳/早川書房
春に 友人がサンクト・ペテルブルクに行ってきた。その写真を見せてもらいながら ぼくは、「卵をめぐる祖父の戦争」という小説を思い出して、もういちど読みたくなった。
ヒトラーのドイツ軍に都市を包囲されて、あらゆる補給路を断たれ、 食料も燃料もなくなり、多くの命を失いながら市民たちが耐え続けたと言われる レニングラード包囲戦を背景にした物語だからだ。
1941年9月から1944年1月まで、窮乏の中で3回もの冬を越えた。レニングラード市民は耐えぬいたとソ連は讃えたが、それは背後にスターリンの銃口とシベリア送りがあったからで、市民からすれば ナチとスターリンを耐えぬいたということだと、この小説の数々のシーンから実感できる。
歴史上屈指の 残虐な独裁者を相手に 外と内で対峙しなければならない市民のありさまは、いまでは自分の身に寄せて物語を想像できるようになった。なにしろ、我々も 内には独裁者になって戦争をはじめたくてウズウズしているような首相を持ち、外には海の向こうに世界で指折りの独裁者がいるのだ。
前に読んで とても面白かったが それは図書館から借りたものだったから、そばに置いておきたいと思っていたので、すぐに買って読みなおした。( 前にもエントリーした:卵をめぐる祖父の戦争/MyPlace)とても面白いよと、その本を 友人に進呈したのだが、読み終わった彼は 傑作だなと言って それを返してくれた。
それというも、この小説の著者デイヴィッド・ベニオフのデビュー作「25時」は新潮社にいる彼の弟さんが編集したので 以前に「卵をめぐる祖父の戦争」をもらったのが 自宅にあったのだという。
なんでも、翻訳出版の世界には、前の作品を出版した会社が つぎの作品を優先的に出版できるという不文律があるそうで、「25時」の次に書かれた『99999(ナインズ)』という短編集の翻訳を出したのだが その売れ行きが芳しくなかったために「卵をめぐる祖父の戦争」を新潮社は見送った。それを、翻訳者はそのままに 早川書房は デザインを一新した 「ポケットミステリー」シリーズの第一作に選ぶという厚遇で迎えたのだ。
そんな裏話がたくさん盛り込まれた 翻訳の田口俊樹と弟さんとの対談もメールに添付して送ってくれた。それがすこぶる面白かったのだが、残念ながら翻訳講座の会員だけのためのサイトのものだからリンクすることができない。
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運動の最終日、この日さいごの「三宅洋平選挙フェス」会場の、品川駅港南口前広場に行った。
開始の5時から30分以上経って品川にぼくが着いたときには、すでに広場は聴衆がいっぱいに詰めかけていた。制限時間である8時まで僕はそこにいたけれど、地上の広場もそれを取り囲む3階ほどの高さのデッキにも、それらを結ぶ階段にも、ひとがどんどん増えると、人と人の間を詰めて 密度を高くして吸収していった。
前半は地上の広場に、後半はデッキの二列目に立って全体を見た。その間に雨さえ降ったけれど、途中で帰ってゆく人は数えるほどしかない。
品川駅は 繁華街ではない。土曜日の夕方に、ここにやってくる人々は少ない街だ。この人たちは、 わざわざこの出来事をみるために 参加するために 三宅の話を聞きに来たのだ。大部分が、すでにYouTubeの映像を見てきただろう。それが これだけの人数になるということにぼくは胸を打たれた。
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常磐道の南相馬インターチェンジの近くに、緑に被われた丸い小さな島が 緑の海に浮かんでいた。
これが「福島」なのかもしれない。
ふもと、いや 波打ち際には、お墓があったので ぼくは興味をそそられて脇道にはいり車を停め 降りて見ると、頂には鳥居も立っている。もとは古墳だったのだろう。
水を張った田んぼに映る空は もう稲のすきまにやっと見えるほどにまで苗が育っている。田んぼの脇の水路に滔々と流れるゆたかな水を見ていると、胸の奥がツンとするようだ。
ひとつには景色の美しさのために、もうひとつは、この田んぼがやがて秋を迎えて米を収穫したとしても 出荷することはできないであろうし、しかも この田んぼを育てる人は それを承知のうえであるという 痛ましさのためだ。
この季節、本来の田んぼはこういう景色であるはずなのに、福島市からここまでの間に目にしてきた風景には、田園らしさはいうまでもなく ひとの姿も 生活の気配もない。
福島に行ったのは6.11土曜日、4月の末に亡くなった叔母の四十九日の法要のためだった。新幹線でいけば楽であるのは分かっていたが、2時に床に就いて5時半にセットしたiPhoneの音楽で目を覚まし 車を走らせて来たのは、福島第一原発とその周辺の様子を自分の目で見て感じたいと思ったからだ。
いままでぼくは、原発の近くに行ったことはない。そもそも福島に行ったことが、これで三度目にすぎない。
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