井上ひさし展:6月9日まで 神奈川近代文学館

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      横浜で打合せした帰りがけに神奈川近代文学館の「井上ひさし展」を見た。
     残り時間が少ないなと迷いながら、みなとみらい線の元町中華街の駅を降りて港の見える丘公園のはずれにある文学館にたどりつくと、閉館まで45分しか残されていない。それでも、見終わった帰り道、木の間がくれに港を眺めながら、もっとゆっくり見られなかったことが残念であるものの来てよかったと思う。
     
     まだ読んでいない小説も戯曲もたくさんあるので、それが残念である反面で、楽しみがたくさん残されていると知ったからだ。それに、勇気づけられた気分もどこかに残っている。
     世の中にとってかけがえのない人の訃報をきいたときにいつも感じるように・・・代わりに冥土に連れて行ってほしいやつなら、神様にたくさん推薦してあげるものをと思ったが、一昨年の3月11日以降は、その思いがますます強くなった。原発に群がった連中の厚顔に腹立たしく、東北出身の井上ひさしが元気でいてくれれば、原発批判の中心となったことはまちがいない。
     
     井上ひさしは、少年時代を過ごした施設の神父にたいする尊敬の思いから、若いときに洗礼を受けてカトリック教徒になっている。そして、日本共産党のシンパと見なされることをいとわない発言をしてきた。日本ではカトリックと共産党のとりあわせは、おそらく稀なことだろうが、ある意味で両者は通じるところがある。いずれも強固な中央集権制を築きあげ、それを 今に至るまで護り続けている。
     ところが、中央集権制そのものに対して、井上は一貫して戦いを挑んできた。そうした一見矛盾するような多義的な在りかたが彼のしごとの魅力をつくりだしているのだ。短い時間に井上の生涯のしごとをたどると、録画しておいたサッカーのゲームを早回しするときのように、かえって全体を貫く軸が見えてきた。

     そうした視点から見れば、江戸時代のお上に弾圧される戯作者を主人公にした「手鎖心中」から「ひょっこりひょうたん島」 や「吉里吉里人」には、中央の強大な権力の横暴や身勝手とそれに対するしたたかな抵抗、そしてみずからの手で独立したコミュニティを築こうとするひとびとの意志がつらぬかれている。ひとりひとりがコミュニティを築き支えるのは原初的なコミュニズムだろうが、権利を付託されたにすぎない中央組織が、ひとたび権力を手にするや一転してひとりひとりの人間を抑圧する側にまわるという現実のコミュニズム国家にはNONを表明しているのだ。

     

     井上は小説や戯曲に笑いをもちこむことを忘れなかったと言われるが、それは、笑いは権力の秩序にホコロビやズレを露わにすることに意味があり、それが中央集権のピラミッドを突き崩す力になると信じたからだろう。したがって、井上のしごとの核心は笑いにではなく、ピラミッドを突き崩し、自分たち自身で支えるコミュニティをつくることにあったのだ。

     社会主義であれ宗教であれ排他的なナショナリズムを掲げる国家であれ、ひとびとを中央集権の均一の価値に束ねようとするコミュニティほど退屈ではた迷惑なものはない。原発が、中央集権の支配と矛盾と堕落を物質化したものであることは、いまや多くの人が認めるところだ。

    もしもいま井上ひさしがこの世にあれば、きっと明日の「さよなら原発集会」に熱いメッセージを送るだろう。


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