カフェ杏奴とブログのチカラ 2
そのつぎに杏奴に行ったときに実物のいのうえさんに会うことができた。しかし、それがいつだったのか憶えていない。ブログに書いたはずだが、それを書いたエントリーを探しても見つからない、じつは書かなかったのかと思いはじめて・・・やっとみつけた。「 カフェ杏奴:こだわりのないということ/MyPlace(2004.06.21) 」というエントリーのコメントに書いていたのだった。
・・・24日午後、カフェ杏奴に寄った。店のあるじがにこにこしてぼくを出迎えてくれたが、その笑顔の向きを変えて近くの席のお客さんに渡した。何も言われなくてもそれが「いのうえさん」であることがぼくには分かった。彼は、「杏奴ノート」に向かっていた。ノートは、店においてあって、客が他の客や店のあるじに対して何か言いたいことがあれば書いてゆく、いってみればアナログのメーリングリストのようなものだ。書いたときと読むときにずいぶんとタイムラグが生じる。いのうえさんは、ぼくにあてて何かを書き始めたころだった。
メールとコメントで会話しているだけなのにずいぶん親しくなった。いずれ会えるだろうとは思いつつ、約束して会うより偶然のほうがいいと思っていたが、思いがけず早く出会うことになった。
先日も、アメリカにいる妹が住んでいたニュージャージーのリッジウッドというまちに住んでいらしたことがあると、ぼくのサイトを読んで、メールをくださったから、いっそう身近に感じていたところだった。もちろん、すぐにうち解けて長い時間話し込んでしまった。話しているうちに、さらに思いがけない共通点があることも分かった。
ノートを書いた本人を目の前にして読むのも妙な気がしたので、いのうえさんがトイレに立ったときにぼくにあてたところをざっとよんだが、いずれまたゆっくり読もうと、閉じた。さまざまなコミュニケーションが増えたことをあらためて実感しそれを楽しんだ。そのあと、園芸屋でサギソウを一鉢買い、たのしい土曜の午後になった・・・
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ブログの構成は、どこか空間を思わせるところがあって、書き手自身の場所・・読者が声をかけられるコメント・・読者が自分の場所につれてゆくトラックバック・・・という順に領域のレイアが重ねられていることに、ぼくは興味を感じるようになっていた。その一方で、アナログ人間を自認する いのうえさんは、ブログを現実の世界に重ねることを面白いと思っていたようだ。ぼくだってそれに異論はない。
彼は、自分が訪ねてみて興味をいだいたブログの書き手の数人にメールを送り、ある日ある時間帯にカフェ杏奴にあつまりませんかと呼びかけた。ぼくはもちろん、一人をのぞいてみんな興味をいだいて集まってきた。ひとりだけ来れなかったひとは沖縄在住だった。
このときのことを書いたエントリーのタイトルを、いのうえさんのことを思い浮かべて「漂泊のBlogger」とした。のちに、いのうえさんもブログを書き始めたのだが、彼はそのタイトルを「漂泊のブロガー」とした。彼はかならず携帯電話のカメラで撮った写真をつかい携帯のURLから発信した。その後「漂泊のブロガー2」に変わってからもそれは変わらない。定住するサイトでなく「漂泊」であろうとしたのだろう。(「漂泊のBlogger」/MyPlace
/2004.09.05)
いのうえさんとはまだ面識のなかったころにいただいたメールに、思いがけない偶然について書かれていた。まだブログのなかったころに書いたぼくのウェブサイトを見ていらしたら、ぼくが妹家族の住んでいたニュージャージーのリッジウッドという村のことを書いていたのでびっくりしてしまったというのだ。Ridgewood Villageといってもぼくたちの感覚では町という印象なのだが、その村はいのうえさんがニューヨーク駐在時代に住んでいらしたところだったのだ。そんなこともあって、ぼくはカフェ杏奴にはちょっとした魔法があるような気がしはじめていた。(「アメリカ再読」/MyPlace/2004.02.20)
- 2013.02.14 Thursday
- Place
- 05:37
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- by 玉井一匡
ここに書かれたいのうえさんのコメントを読んで、わたしも「アメリカ再読」を読み直しました。この元にしたノートは、2000年に書いたものです。つまり、そのあとアメリカに9.11が、それから10年後に日本に3.11がありました。
妹の家のベースメントで感じたアメリカと日本のことは、いまもそのまま変わらないままですね。ぼくたちは変えられずにいる。それは、いのうえさんがおっしゃるように、日本にもアメリカにも残る普遍的な課題なのかもしれない。ぼくも、思いを新たにしました。