首長を選ぶということ
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投票の前日、午後6時からはじまる宇都宮健児さんの投票前最後の演説を聴きに行った。
30分ほど遅れて行くと、まだ本人は登壇していないけれど小田急百貨店前の広い歩道を人が埋めつくし、ロータリーに停めたワンボックスの屋根の上に立って応援のメッセージが続いている。聴衆とワンボックスの間を、たえず車が通りぬける。金持ちの政党が集めたサクラでもなく、宗教団体の信者でもなく、ここに来ている人たちはそれぞれにひとりひとり自分の意志で来たいと思って集まったらしいことを、それぞれの表情に感じる。
やがて、後ろがざわめきだしたので振り返ると、すぐ後ろを歩道の群衆の間を縫って宇都宮けんじさんが数人といっしょに歩いている。「けんじ、けんじ」という呼び声と手拍子がはじまり登壇するまで続いた。
30分ほど遅れて行くと、まだ本人は登壇していないけれど小田急百貨店前の広い歩道を人が埋めつくし、ロータリーに停めたワンボックスの屋根の上に立って応援のメッセージが続いている。聴衆とワンボックスの間を、たえず車が通りぬける。金持ちの政党が集めたサクラでもなく、宗教団体の信者でもなく、ここに来ている人たちはそれぞれにひとりひとり自分の意志で来たいと思って集まったらしいことを、それぞれの表情に感じる。
やがて、後ろがざわめきだしたので振り返ると、すぐ後ろを歩道の群衆の間を縫って宇都宮けんじさんが数人といっしょに歩いている。「けんじ、けんじ」という呼び声と手拍子がはじまり登壇するまで続いた。
「東京都民であることを、これまで恥ずかしく思ってきた。宇都宮さんが知事になれば、東京を誇りに思えるようになる」とワンボックスの上から言ったひとがいた。そうなのだ、 「あんたのとこの熊しか歩かない道路は東京の税金でつくっているんだ」と、全国知事会で石原知事が新潟県知事に言ったということが、佐藤栄佐久元福島県知事の著書「知事抹殺」に書かれている。
そういう暴言を数え上げればことかかない人物が、週に二日しか盗聴(「登庁」の打ち間違いであることを指摘されたが、消さずにおこう)しないくせに知事として君臨してきた東京都という自治体の一員であることを、いつのまにかぼくたちは恥じるようになっている。東京というまちを愛していながら、そのことを忘れてしまうのだ。だから、4年前にオバマがアメリカの大統領になったとき、こういう人物が大統領になることのできるアメリカを、ぼくはうらやましく思った。
じつは、自治体や国家の首長を選挙するということと議員を選挙で選ぶということは本質的に異なるものであることを、ぼくたちはときどき忘れてしまう。議員の選挙は立法府である議会の一員を選ぶことであるけれど、首長の選挙は行政府の長を選ぶものなのだ。大統領制の国家であるアメリカは、国の行政・軍事の長を直接に国民が選ぶのだが、日本では国家の行政の長は国会議員の投票に委ねなければならない。政治への参加意識が薄められるのは当然のことだ。そのうえ彼らは、政党の利害を行動の第一の原理として行動するのだ。
しかし、知事の選挙では、ぼくたちは行政府の長を直接に選ぶことができる。福島の事故の直後にも原発を肯定し、弱者を斬り捨て、ババア発言で女性を侮辱し、他県や隣国を罵倒するような恥ずべき言動をする知事が君臨することを選挙で選んだのは、東京都民だった。だから、この都市の一員であることを恥ずかしく思わずにいられないのだ。ブッシュが大統領だったとき、アメリカ人を父とする甥が「ぼくはアメリカ人であることが恥ずかしい」と言ったことがあって、ぼくは彼がそう感じる人間になったことをうれしく思った。
スポーツの応援をするときに、その結果がぼくたち自身の損得にはほとんど関係がないのに熱中できる。そのくせ自分たちの生活にかかわる選挙にはさほど熱意をいだけないのは、なぜなんだろう。その国、その都市の一員であることを誇らしく思いたいということは、投票の原動力になるのだと、今回の知事選挙では思う。
そういう暴言を数え上げればことかかない人物が、週に二日しか盗聴(「登庁」の打ち間違いであることを指摘されたが、消さずにおこう)しないくせに知事として君臨してきた東京都という自治体の一員であることを、いつのまにかぼくたちは恥じるようになっている。東京というまちを愛していながら、そのことを忘れてしまうのだ。だから、4年前にオバマがアメリカの大統領になったとき、こういう人物が大統領になることのできるアメリカを、ぼくはうらやましく思った。
じつは、自治体や国家の首長を選挙するということと議員を選挙で選ぶということは本質的に異なるものであることを、ぼくたちはときどき忘れてしまう。議員の選挙は立法府である議会の一員を選ぶことであるけれど、首長の選挙は行政府の長を選ぶものなのだ。大統領制の国家であるアメリカは、国の行政・軍事の長を直接に国民が選ぶのだが、日本では国家の行政の長は国会議員の投票に委ねなければならない。政治への参加意識が薄められるのは当然のことだ。そのうえ彼らは、政党の利害を行動の第一の原理として行動するのだ。
しかし、知事の選挙では、ぼくたちは行政府の長を直接に選ぶことができる。福島の事故の直後にも原発を肯定し、弱者を斬り捨て、ババア発言で女性を侮辱し、他県や隣国を罵倒するような恥ずべき言動をする知事が君臨することを選挙で選んだのは、東京都民だった。だから、この都市の一員であることを恥ずかしく思わずにいられないのだ。ブッシュが大統領だったとき、アメリカ人を父とする甥が「ぼくはアメリカ人であることが恥ずかしい」と言ったことがあって、ぼくは彼がそう感じる人間になったことをうれしく思った。
スポーツの応援をするときに、その結果がぼくたち自身の損得にはほとんど関係がないのに熱中できる。そのくせ自分たちの生活にかかわる選挙にはさほど熱意をいだけないのは、なぜなんだろう。その国、その都市の一員であることを誇らしく思いたいということは、投票の原動力になるのだと、今回の知事選挙では思う。
- 2012.12.16 Sunday
- コミュニティ
- 20:12
- comments(3)
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- by 玉井一匡
ぼくも、落胆ーあきらめー絶望ー怒りー「がんばらなくっちゃ」という思いのあいだを往き来しています。
つぎの首相を予定されている人物は「国防軍」を目ざすことを公言するうえに、原発を停止・廃炉するどころか新しい原発をつくるなどと言い出しているなどという報道を見ると、正気を疑わざるをえず、こういう人物と政党を選ぶのが日本人なのだろうかと唖然たる思いです。その一方で、ぼくはむしろエネルギーを引き出されます。
元東京都知事はいまだに東京を膨張させようとしてオリンピックをふたたび東京で開催しようとしているのだから、それと手を結んだ大阪市長は地方分権などではなく独裁的な権力が欲しいにすぎないことをあきらかにしました。
今回の選挙を前にして、女のひとを党首として脱原発を志す政党ができたこと、それが関西からはじまったことにぼくは勇気づけられました。実感として、いまの日本では女の人たちにすぐれた人が多いと感じるにもかかわらず、公の場には相変わらず男たちがはびこっている。政治も経済も東京の極端な中央集権に偏っている。「未来」は、そういう現実をかえてゆく力になるかもしれないと思いました。
また、小出裕章さんのような人がこれまで研究を持続できたのも、彼が京都大学という場所にいたからに違いありません。それが、大学というもののあるべき姿ではないでしょうか。
彼らは権力バブル状態に陥ったにすぎない。勝負はこれからだと自分にも言いきかせています。