「あんぽん」

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     「あんぽん 孫正義伝」佐野眞一著/小学館

     先日、このエントリーを書きかけのまま公開してしまい、あわてて非公開にしたが、そのうちに オリンピックがはじまるし、書きたいことはたくさんあるのに時間がなくてそのままになっていた。こんどは、イ・ミョンバクの突然の竹島*ドクト上陸強行で、このところ順調だった日韓の関係があやしくなったおかげで、このエントリーを仕上げてしまいたくなった。

     ぼくがこの本を読みたくなったのは、地震の後に孫がいち早く巨額の寄付を申し出るとともに、原発廃止と自然エネルギー推進の先頭に立ったからで、同じように思った人が多かったらしく、図書館の予約は60人を越えていた。今はどうなっているだろうかと調べたら、8月26日現在の中野区の図書館では73人の予約があるが、蔵書は9冊になった。予約数も増えたが蔵書も増えて、待ち時間は減った。

    「あんぽん」とは、孫正義が日本国籍を取る前に名乗っていた姓「安本」を音読みしたものだとは、読んではじめて分かった。かつて悪ガキが彼を「あんぽん」と呼んだとき、そこに差別的な意図を込められていたことは容易に想像できるから、あえてそれをタイトルにしているのは、これが単なる出世物語ではなく孫正義とその背景に正面から取り組もうと著者が考え、孫もそれを受けて立ったからだろう。直接の取材も繰り返している孫は、タイトルに対しても異議をとなえることはなかったのだろう。

     彼は留学先のアメリカで知り合った日本人留学生との結婚後に日本国籍をとった。姓を「孫」に変えようとすると、日本に「孫」などという姓はないとして法務省は認めようとしない。彼は一計を案じてこの姓で日本国籍取得に成功する。それを佐野は、いかにも孫らしいやりかたと書いている。
     本来の「孫正義」という氏名のままで日本人になるというところに、日本では差別され韓国にいけば余所者扱いされる在日韓国人という立場に、正面から向き合って生きようとしたのだろう。
     
     彼の一族が日本に来たのは祖父の代、だまされて鉱山労働者として日本に来たからだ。(因みに、その炭鉱は麻生太郎の祖父の会社のものだ)働き者の祖母は、佐賀県鳥栖の駅前の無番地という朝鮮人部落で、残飯を集めてそれを餌に豚を育てた。その息子である正義の父は、14,5歳にして親のしごとを手伝い豚を育てながら、奥で密造焼酎をつくる。そのとき、近くにはもう新たな買い手がないので、少年は自転車に酒をのせて遠くまで売りにゆき、眼が潰れるんじゃないかといって躊躇する客があれば、目の前でみずから飲んで見せて酔いつぶれながら安全を実証してみせるなど体当たりで客を増やしてゆき、数年後には家を建てる。
     その後、金貸し、パチンコ屋と商売を替えつつ拡大してゆき、九州一のパチンコチェーンを築く。想像を絶する劣悪な環境にありながら、それをバネにして商売を拡げてゆくしたたかさ、つよさはすさまじくも痛快だ。

     正義がものごころついたときには、ベンツが家の前の道に置かれている暮らしになっていたが、祖母はリヤカーに正義を乗せて残飯集めをしながら古い家に住み豚を育てていた。そういう家庭環境の中で母は、高校進学にさいして住まいを移ってまで息子を進学校に進ませる。しかし、当時の在日韓国人には職業を選ぶ自由がほとんどないという事実を克服するには、留学するしかすべはないと正義は見極める。
     本書は、劣悪な環境を克服しての出世物語には終わらない。ノンフィクションとして当然のことではあるが、著者は、本人やその子供時代の友人知人はもとより祖父や叔父の代の周辺の人々のインタビューを重ね、孫家に関わる韓国・日本の土地をめぐり、そこで直接の資料を発掘する。

     にもかかわらず著者は、孫のどこかに「いかがわしさ」を感じ続け、その理由はどこにあるのかと自問する。それは、電子化によっていずれ紙の本はなくなると孫が主張するときに、これまでに蓄積されてきた本という文化の価値に対する認識が不十分であるままに電子化への一方的な移行を信じ込んでいるというところに表れる孫の資質のためだろうとしている。

     綿密な調査とインタビューは、孫の行動と発言の核心にあるものを理解させる力があって、再生可能エネルギーについて語るときの、孫の青臭さや楽天的な見通しには、すくなからぬ危うさを感じるところがあるにしても、その実行力や現状把握能力はもとより、世の中をよくしたいという志は、金儲けの隠れ蓑といった体のものではないことを納得させる。

     それにしても、イ・ミョンバクがこれ見よがしに竹島渡航を敢行し、マスコミは反日反韓色に染められ、双方の国民も同調するとは、いずれもあまりにも情けなく大人げない行動ではないか。
    そうした中にあって孫崎享の見方は、尖閣問題についてそうであるように、冷静でまともだ。領土問題については、それぞれに別の歴史を持ちだして主張するものであって、どちらか一方に寄せた結論を出すのは極めて困難であり事実上不可能であるとする。だとすれば、交渉は継続のまま領有の決着を先送りするしかないというのだ。
     一本の線を境に、その両側で国家が変わるということ自体、そもそも不合理きまわりないことだ。そもそも境界というものには巾がありグラデーションがあるのだ。孫崎の考え方は先送りという一見あいまいな結論だが、、空間的なグラデーションは制度の範囲では不可能である以上、時間的なグラデーションと巾をつくるということだ。
    それによって、別の国、異なった文化が接するということがポジティブな意味を持ちはじめるだろう。孫正義が姓を安本から孫に変えて日本国籍を取ったのは、そういう思いもあったのではないか。
     

     
     
     

      

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