石橋湛山が注目されるとき

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     石橋湛山について書かれた本が数冊 うちの事務所に置いてあるのを見て、これは読んだ? と 昨年末に刊行された「湛山読本」を 友人が持って来てくれた。
     もと朝日新聞 主筆の船橋洋一が、社説を主とする湛山が東洋経済新報に書いた記事から70点を選び、それにひとつひとつ時代背景などの解説を加えたものだ。社説は、せいぜい3ページ程度の短い文章だから、通読すると早回しのアニメーションのように時代の流れを実感として感じとることができる。

     読み終わると、いま石橋湛山が注目されているらしいと思った。数年前まで 湛山についてぼくが知っていたことといえば、首相になってすぐに病に倒れ、潔く辞任した悲運の政治家という枠から出るものではなかったが、じつは、石橋湛山は日本のジャーナリストとしてひとり抜きん出た人であるし、経済学者としても政治家としても稀なほどすぐれた人だと 分かってきた。


     半藤一利と保坂正康の「そしてメディアは日本を戦争に導いた」は対談形式の本で読みやすい。ここで半藤は、戦争中のマスメディアは 軍部の圧力に屈しただけでなく、戦争を盛り上げれば新聞が売れるから 読者をあおる報道をしたのだと、大手新聞を厳しく批判する。半藤は それと対比するように、戦前戦中も節を曲げなかったとして 尊敬する2人のジャーナリストを挙げている。

     ひとりは信濃毎日の主筆だった桐生悠々、もうひとりが東洋経済新報の主幹 石橋湛山である。湛山は記者としてだけではなく、東洋経済新報の社長を引き継いでからは経営にもあたりながら筆をとって軍部とわたりあった。

     1921年のワシントン軍縮会議に際して湛山は、「一切を棄つるの覚悟」と「大日本主義の幻想」という社説を書き、満州蒙古も朝鮮も 戦争で手にいれた外国の領地を返せと主張した。
     桐生は、1933年の社説「関東防空大演習を嗤ふ」で、ひとたび空襲を受けたら大規模な火災が生じて 灯火管制だの防火演習など何の効果もないから、そこにいたる前に、空襲を受けないようにするべきだと書いた。

     石橋や桐生が弾圧に屈しなかったことは、軍部のお先棒を担いだ大手メディアのありさまをきわだたせる。おそらくそれが、大手メディアが 石橋や桐生をないがしろにした理由にちがいない。
     マスメディアというもののありようを、ぼくたちが実感をもってひろく理解できるようになったのは、福島原発の事故が起きる前の原発報道の姿勢を知ってからだ。

     いま 日本の政府は、正気の沙汰とは思えない道をつき進んでいる。まわりの国を敵と見立て、軍事力を強化する法律をつくるために 憲法と議会政治をないがしろにする、マスメディアに圧力をかけ 息のかかった人物を配して 世論を自分たちの望むように導こうとしている。
     それと並行して、自然の営みとして大規模な地震がやってくるのが確実であるのを承知しながら、本気で他の方法を探ろうとすることもなく、表面的な経済性に目がくらんで原発の再稼働の機会をうかがい、それどころか原発を外国に売り 武器の輸出市場にも参入をもくろむ。

     この状況は、戦線を拡大し続けた戦争中の軍部と変わらない。だからいま、石橋湛山が再評価されるのだろう。湛山の思想の軸は自由主義であって、自分自身のもとめる自由は他者にも与えるべきだと考える。だから、我々が他国に支配されることを許さないのと同じように、植民地とされた国のひとびとは独立を求めるのが当然だとする。


     しかし、湛山は「主義」の旗印を先頭に立てようとはしない。あくまでも経済の立場から たとえば1921年のワシントン軍縮会議の前にこう論じた。
    「 例えば満州を棄てる、山東を棄てる、その他支那が我が国から受けつつありと考うる一切の圧迫を棄てる、 その結果はどうなるか、また例えば朝鮮に、台湾に自由を許す、その結果はどうなるか。 英国にせよ、米国にせよ、非常の苦境に陥るだろう。 何となれば、彼らは日本にのみかくの如き自由主義を採られては、世界におけるその道徳的位地を保つを得ぬに至るからである。 その時には、支那を始め、世界の小弱国は一斉に我が国に向って信頼の頭を下ぐるであろう」(社説「一切を棄つるの覚悟」抜粋)
     このあとも敗戦まで、表現に工夫を凝らしながら戦争拡大に批判をつづけ、弾圧で会社が立ち行かなくなくなれば 会社の土地建物を売り 社員に分けると告げたうえで、軍部批判をやめなかった。


     ちょうど大手メディアと湛山が ジャーナリズムにおいて対極にあったのと同じように、安倍晋三の崇拝する祖父岸信介と石橋湛山は 国家の成立ちと運営についての考え方で対極にあった。
     湛山が首相の座を降りると、代わりに首相の座についたのが岸信介だ。岸は、首相になると 石橋が進めようとしていた日中の国交交渉をやめ、国会で強行採決して強引に日米安保条約を改定した。戦前に石橋が「小日本主義」をとなえ、日本は満蒙 朝鮮 台湾を手放せと主張し、国内においても地方分権を目指したのに対し、岸は官僚として満州国の設立 経営に辣腕を振るう中央集権の中心にあった。
     敗戦後、岸は満州進出の責任を問われA級戦犯となりながら、多くのA級戦犯が絞首刑に処せられた1948年12月23日(明仁皇太子の誕生日)の翌日に釈放された。のちにCIAから資金援助を受けたと、公開された公文書に残されている。それにひきかえ湛山は、戦中に帝国主義を批判し小日本主義を主張していたにもかかわらず、戦争協力の廉で 吉田内閣の大蔵大臣時代に GHQから公職追放を命じられた。GHQにたてついたことが理由のひとつだと言われている。

     数年前に、堀田善衛の「路上の人」などといっしょに叔父の書斎の本棚から「石橋湛山-人と思想」(1974年)をもらってきたが、そのとき僕は この本に何が書かれているか知っていたわけではなく、もらってきたのは、むしろ知らなかったからだ。これは、「石橋湛山全集」十五巻(1972)が刊行されたときに各号の月報に寄せられた湛山について書かれた49の文章を一冊にまとめてたもので、さまざまな時期 さまざまな状況で湛山と接した各界の人々から見た湛山像がすこぶる興味深い。
     中でも、弁護士正木ひろしの「桂冠を怒る」という一文が、唯一、石橋の行動を批判していて秀逸だ。首相の座を2ヶ月で去った行動を厳しく批判する。・・・己の進退を医師に委ねるなど女々しい、国会の壇上で倒れるまで所信を貫くべきだった・・・というのだ。
     執筆を頼まれた当時、正木は、冤罪事件の裁判に忙殺されていると 一度は断ったが、編集者に乞われて時期を遅らせて書いたそうだ。短い文章で 正木は湛山批判をしながら それ自体が むしろ湛山の報道の自由を表現するという離れ業をやってのけたわけだ。

    東洋経済新報は、現在も湛山の志を受け継ぎ、経済という立ち位置をまもりつつ報道と出版を続けている。

    ■関連資料
    ・戦中の社説
    一切を棄つるの覚悟/石橋湛山/東洋経済新報社説 1921年7月23日号
    大日本主義の幻想/石橋湛山/東洋経済新報社説 1921年 7月30日, 8月6日, 13日号
    関東防空大演習を嗤ふ /桐生悠々 著/信濃毎日社説 1933年8月11日
    ・戦後出版された本
    石橋湛山全集/石橋湛山/東洋経済新報社 1974年・2010年復刻
    石橋湛山-人と思想 /長幸男 編/東洋経済新報社 1974年
    石橋湛山評論集 /松尾尊兌 編/岩波文庫 1984年
    孤高を恐れず 石橋湛山の志 /佐高信 著/講談社文庫 1994年 
    戦う石橋湛山 /半藤一利 著/東洋経済新報社 2008年
    そしてメディアは日本を戦争に導いた /半藤一利・保坂正康 著/東洋経済新報社 2013年
    湛山読本 - いまこそ、自由主義、再興せよ /船橋洋一/東洋経済新報社 2015年
    ・著作リスト
    石橋湛山関連本一覧/Amazon


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