「LightHouse ライトハウス すくっと明治の灯台64基」:灯台を読む図鑑

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    ライトハウス すくっと明治の灯台64基/撮影 野口毅/解説 藤岡洋保/Banana Books

     数年前に 神楽坂のギャラリーで 灯台を撮った写真の個展が開かれた。それが図鑑のような一冊の本にまとめられたから、図鑑や辞書が好きなぼくは この本がつくられたことがとてもうれしい。
     図鑑といい辞書といい、ある世界を構成するものたちを整然とならべた標本箱のようなものだとぼくは思う。この本には64の灯台が納められているから、縦横をそれぞれ8つに仕切った64個の正方形のマス目に ひとつずつ灯台が並ぶ箱が思い浮かぶ。

     遠く人里をはなれ海の際に立って 崖の上から水平線と対峙して ひとり天を指す灯台は、陸に生活する多くの人々にとっても、心ひかれる建築である。
     とはいえ、ひとびとがそこに集まって住み 生活を楽しみ、まちとともに魅力的な場所をつくることが建築の本領なのだが 灯台にはそれがはなはだ少ない。その意味では社会性にとぼしい建築でありつつ、海を行く船たちの命をあずかっている。

     それぞれの灯台の写真に 歴史や位置 構造やしかけについて解説が添えられているのに加え、巻末では明治期に灯台がつくられた経緯が解説されている。日本地図に書き込まれた灯台の位置を確認しながら読んでゆくと 、じつは灯台そのものが 明治という時代を物語る重要な記録であり、日本が近代と遭遇したさまを語ってくれることがわかる。
     1863年、尊皇攘夷の急先鋒だった長州が 関門海峡を航行する外国船を砲撃すると、翌年には 四カ国の連合艦隊に報復砲撃をうけて 長州が叩きのめされ、ときの行政府だった幕府も条約を結ばされる。それにもとづいて外国船の航行のために8つの灯台の建設を要求された。
     英国は技術者を日本に送り その指揮のもとで灯台がつくられるが、初期の灯台は国内の水路のためではなく諸外国の蒸気船の航行のためにつくられたものだが 費用は日本が負担した。
     1870年から1878年の間に灯台に投じられた費用は、工部省の予算の20〜45%に及んだ。その後も北海道は、国ではなく北海道自身の予算で1888年から1893年までに20基の灯台をつくり、とりわけ初年度には北海道費の45%を投じたという。

     これほどの費用を灯台に投じる工部省という役所は、灯台の建設の他には何をやっていたのだろうかと気になってきた。Wikipediaによれば、工部省は「官営事業としての鉄道造船鉱山製鉄電信灯台など近代国家に必要なインフラストラクチャー整備を行った」とある。つまり、当時の工部省は 他のさまざまなインフラを差しおいて、なによりも灯台の建設を優先したわけだ。
     この数字は、諸外国の要求がいかに強いものであるかを示す。開国というものの中心に、まずは下田と箱館の開港があったのだから、主要な航路の整備ということはその一環として不可欠なものだったわけだ。それとともに、当時は人や物資の移動がいかに増えたか、それらが海上交通にどれほど依存していたかを物語っているはずだ。

     GPSはもとよりレーダーもなく、船は天体を基準に自分の位置を測った時代に日本の近海を航行する船にとって、灯台は海を高速道路に変える装置のようなものだったのだろう。
     1903年に竣工した出雲日御崎灯台の塔は、日本一の高さ44mを誇る。二重の円筒の壁は、外側が石積で内側は煉瓦造だが、日本は、
    擁壁や基壇などの基礎部分をべつとして 組積造という建築の形式がほとんどない おそらく世界でも例外的なところだから、石と煉瓦を使って44mの塔をつくるということがどれほどの挑戦的は試みだったかは容易に想像がつく。

     ヨーロッパ諸国は20世紀はじめにはエチオピアを除いてアフリカをことごとく山分けしてしまったし、フランスは19世紀末(1887~1899)にインドシナを植民地にした。ヨーロッパによる領土の取り合いは、清朝末期の中国にとりかかっている時だ。アジア大陸の東のはてに浮かぶ島にすぎない日本は、各国が中国にとりかかっているうちに なんとか体制をつくりなおし、幸運にも 寄港地として灯台の建設を要求されるくらいのことで済んだ。しかも、つくらされた灯台は その後現在にいたるまで働き続けたのだから、灯台は 航海のために地上につくられた星であり日本の幸運の灯だったのかもしれない。

     ペリーが1853年に日本にやってくる前に琉球に寄ったことは このごろはよく知られているが、恥ずかしいことに僕は、このときペリーが太平洋を渡って来たと思い込んでいた。しかし、ペリーの艦隊はアメリカ東海岸を出発したあと 大西洋を横断してマデイラ島からアフリカの西岸沿いに南下してケープタウンを経て、セイロン、シンガポール、香港、上海という長い旅のあと琉球に寄港して、
    日本にやってきたのだ。
     この数年前に 米墨戦争(1846~48)でメキシコからカリフォルニアを取って領土に加えたアメリカは、太平洋からアジアにゆくための寄港地を日本につくりたかったのだ。日本の鎖国をこじ開けて寄港地を手に入れる条約をつくらせたあと、アメリカは南北戦争(1861~65)という熾烈な内戦を戦い、それを終えたあとアジアに戻って来る。
     明治維新という革命が起きたのも、灯台というインフラストラクチャーの建設にとりかかったのも、それからのことだ。

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