「大石芳野写真展 瞳の奥に -戦争がある-」 しかし、われわれの政府は・・・

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     できるだけ多くの人に見てほしいと思っていたのに、吉祥寺駅に近い武蔵野市立吉祥寺美術館で開かれている 大石芳野さんの写真展「 瞳の奥に  -戦争がある-」の会期が、明日の日曜日 11月28日までの 残り2日となってしまった。

     

     大石さんは、戦争で多くのものを失い 心身を深く傷つけられたひとびとをモノクロームの写真に残しているから それを見るのはつらいのだが、写真を見ているうちに思い出されることがある。

     戦争で失われたものの大きさ、それでもなお生きようとする人々のうちで 吹き消されることのない燠火、おそらく子供たちに生まれながらに授けられた生きる力、それらが 写真に写しとられているのだ。いや、彼女たちの表情そのものがフィルムであるように戦争が写しとられながら、それを透けるように 生きようとする力が見えるのだ。

     

     大部分の写真は、ベトナム、カンボジア、ラオス、アフガニスタン、コソボ、広島、長崎、沖縄などで撮ったものだ。被写体となっている人たちは 男が少なくて、戦争に巻きこまれた母や妻であり娘である女たち、そして子供たちである。それは、大石さんが女性であるからではない。いつの時代も繰り返されてきたように、男たちは戦場に行き、殺し殺されるからだ。男らしさなどと称揚されるものが残すのはこれだ。

     カンボジアでは、男たち とりわけ教職にあった人たちや技術者、芸術家などが、あろうことか 戦の敵ではなく自分の国の支配者に撲殺された。「女の国になったカンボジア」という大石さんのノンフィクションには、そういう国のありさまが描かれている。


    「池田学 ペン一本 まだ見ぬ頂へ」

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       昨年12月29日、NHK BS1で「明日 世界が終わるとしても」というドキュメンタリーシリーズが始まり、その第1回目が、アメリカに滞在して一枚の繪を描き続ける画家 池田学をとらえた「池田学 ペン一本 まだ見ぬ頂へ」だった。

       

       池田は、3年前からアメリカの美術館の地階にある一室で 黙々と一枚の絵を描いている。彼の大作を描くには、水平に置いた紙に ペンで一本ずつ線を加えてゆく細密な作業と 絵の全体を見る構成の間を自在に行き来できるのが理想だから、広い作業台と高い脚立を置ける大きな空間は得難いものだ。この絵の全体は、上の写真のパネル4枚分の大きさがある。

       だからこそ彼の絵は、ぼくたちひとりひとり 一日一日の経験や行動がひとつの大きな世界をつくっているということを実感させるのだ。

       

       ここはウィスコンシン州の州都マディソンにあるチェイズン美術館(Chazen Museum of Art)。どんなところなのか 僕は知らなかったからGoogleマップで探すと、その前を走る道はユニバーシティ・アベニュと名づけられている。 湖のほとりにある この一帯には大学や研究教育機関があつまって、見るからに気持ちよさそうな環境がつくられている。池田には 仕事の場ばかりではなく、制作に集中できるように さまざまな環境が提供されているのだ。

       

       美術館は、さらに興味深い仕掛けをつくった。週末と休館日の月曜をのぞく毎日 13:30から14:30まで、池田の制作している様子を入館者が間近で見ることができるようにしたのだ。ドキュメンタリーは、絵の完成日と定めた日までの最後の日々を伝えている。彼の描き方と表現するものは分ちがたく結びついているから、描く過程を見る機会をつくったわけだ。

       


      Twilight:石を磨く

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        Click to open Twilight 
         いま、娘が東京を離れて松本にいるので、たまに電話をよこすと、さまざまな出会いや発見があったことを話すのだが、あるとき、とてもすてきなピアノを弾く少年がいる こんど その子とライブをやるんだと言った。

         またあるとき、とてもいい写真を撮る人がいらして その人は石を磨く職人なんだと言う。後日、そのひとのお宅へ食事にお招きいただいたときのことをきいて、石を磨く人は少年の父上であることを知った。

         石を磨くひとと聞いてぼくはイサムノグチのために石を彫った和泉正敏氏のような仕事を思い浮かべた。しかし、いくつかのキーワードを打ち込んでブログを探し出して写真と文章を読むと、その人・小畑彰さんの石はそれとはまったく別の、これまでぼくが知らなかった宝石に属するものなのだった。
         
         宝石とはいえダイヤモンドやルビーのような、均質であることや純粋であることが貴ばれるものではなく琥珀や天然真珠など、生物によってつくられたために不均質で変化に富んでいるもの、あるいは生物由来ではないけれど複数の元素の共存するトルコ石などだ。ダイヤモンドのような純粋で完璧なものを見ても、ぼくの中ではそこから外に世界が拡がってゆかない。けれど、アンバーや歪んだ天然真珠やトルコ石は、複数の要素が凝縮された世界をつくり出すし、自然によってつくられた時や場所までさかのぼり想像力がひろがってゆく。
         上の写真は小畑さんのブログ「Twilight」の一部をトリミングしたものだ。これだけではブルーアンバー(あおい琥珀)とよばれる理由はがわからないが、写真をクリックすれば大きな写真が開く。
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