「主戦場」というドキュメンタリー映画

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     デモクラシータイムズ」は、YouTubeで誰もが見ることのできるまっとうな報道メディアのひとつだが、その中に 「世界を変える100人の働き人」というインタビューのプログラムがある。

     ゲストの選び方も話のきき方も興味深いのは、インタビュアーである池田香代子がおそらくゲスト選びも自分でやっているからなのだろう。ぼくは 数ヶ月前に気づいたことだが、このタイトルは 彼女が翻訳した「世界がもし100人の村だったら」に因んだものなのだ。

     

     20人目のインタビューのゲストは、ミキ・デザキという日系アメリカ人、「主戦場」という興味深いドキュメンタリー映画を製作監督した人である。4月20日から、東京なら渋谷のイメージフォーラムで公開しているが ぼくはまだ見ていないけれど、このインタビューを見て 必ず見ようと思った。


     デザキは、かつて2年間 山形の高校で英語を教えたときに、日本人が 自分たちの行う差別について自覚が乏しいのを知り、それを契機にこの映画をつくるに至ったという。人間に対する人間による「差別」という問題に向き合うために、彼は きわめて困難な題材を選んだ。


    暮しの手帖:特集 戦争中の暮らしの記録

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       自宅の最寄り駅、西武新宿線新井薬師前駅には小さな駅前広場がある。

       私鉄の小さな駅には 前後に踏切があることが多いから、改札を出て線路の反対側に行こうと踏切にいくと、たいていは遮断機が下りている。いま乗ってきた列車が通り過ぎているのだ。

       

       それを待つのがいやなら 階段を上って駅の反対側の改札を出入りすればいい。

      しかし、朝は 乗る人も降りるひとも時間に追われているから、階段をのぼって向こう側に渡るけれど、家路につく夜には時間の余裕があるから踏切を待つことが多い。だから 駅前の小さな広場にならぶ店がぼくたちをとらえる。

       

       そこにある古本屋の、 安い本を入れた店先のワゴンの中に「特集 戦争中の暮らしの記録」という「暮しの手帖」があった・・・500円だった。やや傷んでいるが、これぐらいの方が 読んだ人を感じられるし 戦時中の暮らしの特集らしくもあるから、かえっていい。

       NHKの朝ドラを見て、発刊当時にこの号を買わなかったことをぼくは後悔していたから この発見がうれしくて、奥にいるオヤジに500円硬貨を渡して、満足感にひたりつ道々読みながら帰った。

       

       やがて放送が終わろうとしていた頃に買ったのだが、いまも まだ通読していない。とはいえ、雑誌というものはそういうものなのだから、受けとった印象が弱まらないうちに書いておこう。


      三宅洋平の最終「選挙フェス」の熱 @品川駅港南口広場

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         運動の最終日、この日さいごの「三宅洋平選挙フェス」会場の、品川駅港南口前広場に行った。

         

         開始の5時から30分以上経って品川にぼくが着いたときには、すでに広場は聴衆がいっぱいに詰めかけていた。制限時間である8時まで僕はそこにいたけれど、地上の広場もそれを取り囲む3階ほどの高さのデッキにも、それらを結ぶ階段にも、ひとがどんどん増えると、人と人の間を詰めて 密度を高くして吸収していった。

         前半は地上の広場に、後半はデッキの二列目に立って全体を見た。その間に雨さえ降ったけれど、途中で帰ってゆく人は数えるほどしかない。

         

         品川駅は 繁華街ではない。土曜日の夕方に、ここにやってくる人々は少ない街だ。この人たちは、 わざわざこの出来事をみるために 参加するために 三宅の話を聞きに来たのだ。大部分が、すでにYouTubeの映像を見てきただろう。それが これだけの人数になるということにぼくは胸を打たれた。


        路上の人

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          路上の人/堀田善衛著/徳間書店スタジオジブリ事業本部発行

           「路上の人」というタイトルから想像すると、主人公は巡礼する修道僧か乞食かと思って読みはじめたがそうではない。

           時は13世紀前半 この頃のヨーロッパの内陸の都市は、どこまでもつづく底知れぬ深い海のような暗黒の森に浮かぶ島のようなものとして描かれている。その島と島を結ぶ道路には、敗残兵などが追いはぎになって待ち受ける危険きわまりないところなのだ。

           主人公ヨナは ただの路上生活者ではない。旅する僧や貴人や ときに騎士たちのもとにあって 水のありかを教えたり 分かれ道の選び方を示し 食料を調達し、時には暴力を排除するためにナイフを身につけてそれをつかうことさえ含む雑用をひきうける、従者という仕事を手に入れることができた。

           都市や修道院が、視界の閉ざされた森の海に 石の壁で囲われた島のようなものであれば、言語も交流することも稀であるから 多数の言語が散在することになる。ヨナは正式に教育を受けた訳ではないが、従者として移動しているうちに、各地で最低限の言語の集合を身につける。彼が仕える人々は当然の教養として普遍言語であるラテン語を身につけていたから、ヨナはラテン語も使えるようになっている。

          「戦争をしない国 明仁天皇メッセージ」

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             click 戦争をしない国 明仁天皇メッセージ/矢部宏治、須田慎太郎著/小学館

            衆目にさらされる人たちの中で、明仁天皇はきわだって日本国憲法をまもろうとしていると 多くの人が感じはじめているのではないか。

            大辞林で「まもる」と検索してみると3つの項目があるが、そのはじめの2つには、例文を省くと こう書かれている。
            (1)大切な物が失われたり、侵されたりしないように防ぐ
            (2)決めたことに背かないようにする

            「憲法をまもる」という時に、ぼくたちは無意識のうちに (1)を思い浮かべがちだけれど、(2)の意味は つい忘れそうになる。おもに、公職にあるひとが自らを律するものだからだろう。
            明仁天皇を、おだやかでやさしい 誠実なひとだとは、おそらく大部分の人々が感じて来たことだろう。しかし天皇は、皇太子時代も含めて 過酷な環境の中であらん限りの力をふりしぼって、この二つの意味で日本国憲法を護ろうとして来たのだと、この本を読んだあとでは思う。
             
             A級戦犯が絞首刑に処せられたのは1948年の12月23日。この日付は現在の天皇誕生日、当時の皇太子 15歳の誕生日という日が あえて選ばれたのだ。その多くが日本を滅びの淵に導いた者たちだったとはいえ、なんというバースデープレゼントだろう。誕生日にひつぎがならべられたのだ。

            その翌日、現首相の祖父 岸信介や笹川良一らが自由の身となった。


             のちに海洋博に際し、体調をくずした昭和天皇に代わって沖縄を訪れた皇太子夫妻に対し 阻止行動がおこなわれ、ひめゆりの塔を訪れたときには 近くの地下壕に潜んでいた活動家が火炎瓶を投じる事件が起きた。
            しかし、そのときに皇太子夫妻が示された態度と その夜に配られた「談話」と帰京後に詠まれた琉歌(琉球のことばで詠まれた定型詩)が沖縄県民のこころを少なからず動かしたということも、ぼくは初めて知った。

            この本に「明仁天皇のメッセージ」という副題がつけられているのは、さまざまな機会に行われた天皇の公式会見のことばや歌会始などにさいして詠まれた歌に込められた思いを読み解き、あるいは 皇太子時代を含めて かつて身近にあった人たちの証言記録にもとづいて、戦争と平和についての明仁天皇の考え方と志を明らかにしたものだからだ。


            半藤一利の昭和史:昭和天皇への敬愛と軍部への怒り

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               近頃は世の中の状況が この前の戦争が始まった頃の雰囲気に似ていると、戦争を体験した人たちが言うようになって久しい。
              しかし、その時代を身をもって体験した人たちは、年ごとに少なくなってゆくから、戦争体験のない我々が、直接に彼らの体験、あの戦争とその時代について聞くことはほぼ不可能になろうとしている。いま、我々の手に残されるものとして、半藤一利の数々の著書がますます重要になってきた。

               半藤は、ふたつの重要な時代と立場を体験している。
              ひとつは戦争体験である。中学生時代に向島で東京大空襲に遭遇し九死に一生を得たあと、長岡に疎開し山本五十六の母校に学び敗戦を迎えた。彼は 戦闘に加わったことも人を殺した経験もないけれども、殺されそうになり死屍累々の都市を歩いた。
              もうひとつの立場は戦後、総合雑誌が現在とは比較にならないほどの大きな影響力をもっていた時代に、文藝春秋社の編集者として、のちに編集長や役員としてマスメディアの中枢にあった。岩波の「世界」が革新の中心であるとすれば、「文藝春秋」はいわば保守的なリベラルの中心にあった。しかし現在の半藤は、憲法9条をまもり、エネルギーは原発をやめるべきだという立場を明確にしている。冷戦がおわり数十年を経たいま、保守と革新という色分けとは違うものになっている。

              「昭和史」と「昭和史 戦後編」は、出版社の若い人たちに乞われて聞き手4人を前に月に1回ずつ1年をかけて昭和の歴史を語ったのを 文字起こしして1冊の本にしたものだ。歴史探偵を自称する半藤は、具体的な資料を示しそれらにもとづきながら 研究者ではない身の軽さで昭和を語り、ときには等身大の半藤少年の眼になって戦中時代を描いてみせる。
              始めの一冊「昭和史」はミズーリ号で降伏文書を交わすまで、二冊目「昭和史 戦後編」は沖縄返還までだ。あの時代が現在とどう似ているのかを知るには1冊だけでいいが、そのつづきも読まずにはいられないだろう。

              「昭和史」を構成する15の章のタイトルをみれば、そのすべてが戦争にかかわっている。(ここ、あるは文末の 関連エントリー「昭和史1925-1945」/aki's STOCKTAKING を開くと15の章が見られます)昭和という時代が、始めから敗戦まで絶えざる戦争の時代だったというのが半藤の視点なのだ。このなかで半藤は、日本を昭和天皇・軍部・政財官という3つの軸が国民の上に乗り、マスメディアという4つめの軸がその間を右往左往して利益をあげることに目がくらみ戦争を煽ったと、戦中の昭和史を総括する。・・・ところで、4つの軸云々ということを半藤が書いているわけではなく、ぼくの半藤観です。

              明治神宮 と大正デモクラシー、そして新国立競技場

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                 世界中でつづく殺しあいと壊しあいに人々の目が向けられるのをさいわいに、当局は新国立競技場の批判を小手先の縮小変更でやり過ごして予定通りに進めようとしている。
                 しかし、パレスティナやウクライナの深刻きわまる事態を思えば、新国立競技場の建て替えなら いまからでも方向転換できる問題であることがわかる。オリンピックをはじめとする国際的なスポーツ大会が利権やナショナリズムと支えあっているとはいえ、理念としては世界の平和と共存をかかげているし、国内で決心すれば変えられることなのだから。

                 新国立競技場のコンペについて建築家槇文彦氏が建築家協会の小冊子に投じた一文が最初の批判だった。
                ここで槙さんは、コンペの主催者が設定したプログラムを批判し、それに代わるべきプログラムを示したうえで、市民ひとりひとりが都市の環境をつくろうとする意識を持ってその構築に加わることを求め、それを支える制度も提唱した。ここでいうプログラムとは、あらたな国立競技場をつくるにあたって目ざすべき競技場のありかたのことだ。・・・ここでもういちど読み返してみないか
                新国立競技場を神宮外苑の歴史的文脈の中で考え」(JIAマガジン2013年8月号 p9-15)を。

                 新国立競技場の計画を神宮外苑の歴史的文脈の中で展開するのは当然のことなのだが、ぼくにとって外苑は子供時代から身近な場所でありながら、歴史的に考えようとすれば、すぐには明治神宮に共感することはできなかった。
                 もう10年近く前かもしれないが、ビヨークがニュース23にゲストとして出たときのこと、「日本には自然を神とするシントーという宗教があるそうですね」と共感をこめて言うのを聞いて、ぼくはいささか面はゆい思いがした。明治神宮が神としているのは、じつは天皇なのだし、明治政府は神道を中央集権化するため 各地に固有の神社を廃して、中にはその神木をはじめとして山の木が売られたことさえあった。それに対して南方熊楠が地元の神社を護るために立ち上がったこともある。国立競技場で学徒出陣の壮行会が行われたことも、何年か前までは日朝合邦記念碑と刻まれた大きな石碑が表参道にあるのを見ておどろいたこともある。

                 ところが、神宮外苑の歴史的文脈の拠りどころとして槙さんが挙げた「明治神宮 「伝統」を創った大プロジェクト」(今泉宣子著)という本には、明治神宮を構想し計画しつくりあげた経過と、それにかかわった人々について書かれていて、これまでとは違う側面がいくつもあるのだ。

                1991年のマトリョーシカ

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                  Click →マトリョーシカの中身を見る
                   自宅のマンションの管理組合総会が終わったあとSさんと立ち話をしていると、居間の4つのダウンライトのうち3つが切れたけれど脚立にのぼるのがこわくて取り替えられないとおっしゃるので、帰りがけによって取り替えてあげることになった。
                   
                   脚立の上から見ると、棚の上に男のマトリョーシカの大きさ違いで同じ絵のものが2つ乗っているのに気づいた。
                  ぼくは、電球をねじ込みながら質問する
                  「あのマトリョーシカは何ですか」
                  「あら、そんなものがあるの?私も見たことがないからわからないわ。彼の弟が亡くなったときに持ってきたんでしょ」とおっしゃる・・・数年前に80代で亡くなったご亭主を、いまも彼と呼ぶ科学者夫妻がほほえましい。

                   「頭のてっぺんに大きなシミがあるから、ゴルバチョフでしょう。あの中に誰が入ってるのか見たいので開けていいですか?」
                  「もちろんいいですよ」とおっしゃるので、電球を入れ替えたあと、ゴルビーをテーブルにのせた。
                   順番に中身をとりだして並べると4人の男たち。
                  2つとも、ゴルビーの中から出てくるのは同じ人物だ。マトリョーシカは決まりきった輪郭の上に大きな顔の人間を描いたものだから、実物とは印象が変わるので、順番からすればゴルバチョフの次がブレジネフでいちばん小さいのはレーニンであることはすぐに想像がつくが、その間の二人はそうもいかない。
                  「よかったらあげますよ」とおっしゃるので、お言葉に甘えて小さい方をひとついただいてきた。

                  金曜日の夕刻、首相官邸前に行ってみないか・・・何かが育とうとしている

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                     われわれの政府が、原発に対する基本姿勢を明らかにしないまま強引に大飯原発の再稼働を決めたことに憤懣やるかたなく、6月22日、29日、7月6日と、3週続けて金曜日の夕暮れ時に首相官邸に行った。
                     いうまでもなく「@TWITNonukes ツイッター有志による反原発デモ」に参加するためだが、行進することのゆるされないこの「デモ」に、胸に抱えていた憤懣は体中に拡がってフツフツと蠢いている。にもかかわらず、このデモはなかなかいいじゃないかと、ぼくは思いはじめている。

                     22日、溜池山王駅で地下鉄を降りて秋山さん首相官邸の前に向かうと、途中ほとんど警備がないのに拍子抜けしたが、やがてそのわけが分かった。官邸は高台だが溜池山王は低地にある。官邸の裏側にはコンクリートの擁壁や石垣がそそり立ち、人間による警備を必要としないのだ。ここは人を寄せつけないという意志をあからさまに城郭を模してつくられている。地形に従ったまでだと設計者は言うだろうが、もっとやさしい表情のデザインがいくらでも考えられるから、おそらくこれは意図的なものだろう。
                     ホワイトハウスの前には大きな広場がポトマック河まで続いていて、黒人の権利を求めたワシントン大行進のキング牧師による演説「私には夢がある(I have a dream)」がそこで行われた。われらの国会や首相官邸も表側では道路と同じ高さだから擁壁はないかわりに、ひとを寄せつけない壁や装甲車の列があるばかりで、広場などありはしない。

                    1933年3月25日の朝日新聞

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                      朝日・ナチ・独裁SNClick to PopuP

                       十数年前、西麻布の長屋をそば屋に改装しようとしていたときに、押し入れの壁に貼ってあった紙をはがしてみると、下張りに興味深い古新聞がつかわれていた。以前にそれをエントリーしたことがあるのだが、もういちどそのことについて書きたくなった。(西麻布押入の下張/MyPlace
                       それというのも、当時の世の中の状況が、いまぼくたちの直面しているものと重なるように思われる記事があるからで、ぼくはその新聞を引き出しから取り出して2週間ほど前から壁に張っている。
                       ヒトラーの写真の目と口を、おそらく線香で焼いて穴をあけたのは僕ではありません、この長屋の住人の仕業、いや、この時代とすれば快挙です。

                       新聞は1933年3月25日 「東京朝日新聞」の第一面で、「ナチス独裁の覇業遂に完成す 独逸國會愈可決」という見出しをヒトラーの写真と並べて、ナチスが政権を取ったことを、めでたいこととして報じている。大メディアというものはいつの時代も権力に流されがちなものであり、人々は不安な状況に置かれると独裁者の叫ぶ言葉に、あたかも明快な道を力強く導くかのように思い込まされて 身を委ねるようだ。
                       原発をこれまで支えてきた新聞やテレビのありかたは、1933年頃と さして変わりがないことを、この一年で我々は繰りかえして目にしてきたから、容易には信じなくなっただろう。しかしその一方で、独裁的な主張や排他的なナショナリズムがふくらみそうな気配がある。

                      この新聞には、さらに もうふたつの気になる記事があることに気づいた。
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